「わたし(イエス)に何をして欲しいのか」
マタイ20章29―34節
都上り(エルサレム)の道中、多くの群衆がイエスとその一行について来た。
群衆たちは、イエスこそローマの圧政から解放し、ユダヤの王にふさわしい人物であるとの期待を抱いていた。
その道中、イエスが2人の盲人の近くを通られ、2人は大声で「主よ。ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫んだ。それで、群衆たちは2人を黙らせようとしたが、なお大声で叫んだ。
2人の盲人は、惨めで辛い人生を送っていた。そのような2人を見た群衆のうちに、盲人の目を開けてくださるはずとイエスに頼んであげる情けをかける者がひとりもいなかった。
そこで、イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と2人の盲人の信仰を試して彼らの目を開けられた。
群衆たちがイエスについて来た動機は「わたしに何をして欲しいのか」を叶えてくださることにあった。
盲人たち(そのうちの1人はバルテマイ:マルコ10章46節)がイエスについて行った動機は目が癒されたからであった。
さて、終末時代における今日のクリスチャンに求められるものは「わたしに何をして欲しいのか」と求める信仰だけではなく、「私は、あなたのために何をすればいいのでしょうか?」とささげる信仰も求められているのではないだろうか。