「イエスは神の子」 要約 マタイ12章38―42節  2023.8/6  港キリスト教会

    「イエスは神の子」

               マタイ12章38―42節  

 

  今回は、イエスの奇跡のわざ(22節)を目の当たりにして信じようとしない宗教家(パリサイ人や律法学者)たちの問題点とは何か。

問題点1 彼らの自己満足にある

エスが、宗教家たちの奇跡を見たいとの要求を拒否された。それは、奇蹟が彼らの自己満足を満たす材料とならないためではないだろうか。イエスの奇跡は、人々の関心や興味を引くためではなく、病人が癒やされ、そして奇蹟を見た人々が偉大なる神を信じ、恐れ、へりくだるためである。神の御思いにそぐわない自己満足は一時的であり、いつまでも変わらない心の満たしは神から来る。「誰でも、渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7章37、38節)

問題点2 彼らのプライド(自尊心、自負心)にある

 イエスは、群衆たちにとって救世主と思わせる偉大な人物であったが、宗教家たちはイエスを受入れることができなかった。なぜなら、彼らのプライドが許さないからである。彼らは、高貴な宗教家として人々の前に立ち振る舞っていたが、彼らのプライドは神の前にへりくだることを妨げ、神を信じようとする素直な心を歪めるものであった。そのようなプライドは、その人を高めることはない。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」 (マタイ23章12節)

問題点 3 彼らの不信仰にある

 イエスは、預言者ヨナ(40―41節)と南の女王(42節)について話された。人々はヨナの説教で悔い改め(41節)、南の女王はソロモン王の知恵を学ぶために地の果てから訪れた。両者の共通点は、神のみことばを聞き従ったことにある。当時の宗教家たちは、聖書を深く学び、十分な知識によって教える立場であった。しかし、みことばを行うことを疎かにしていた彼らは、まことの神と出会えなかった。

 彼らは、誰よりも優るイエスを妬み、憎しみ、十字架につけてしまった。それは彼らの不信仰によるものであった。

 人知をはるかに超えた無償の愛によって、私たちの罪のために十字架でいのちを捨てられ、三日目に死からよみがえられたイエスこそ私たちの救い主であり、まことの神の御子である。