「人と動物の命の価値について」
マタイ8章28―34節
2人のガダラ人に取り憑いていた悪霊たちがイエスに出会い、彼らは自分たちを豚の群れの中に追いやってくださいと懇願。イエスは悪霊たちの願いを聞かれた。
そして、悪霊が入った2千匹ほどの豚が険しい崖を駆け降りて、湖になだれ落ちておぼれた。
その結果、長い間悪霊に取り憑かれていた人が、正気に戻ったのを目撃していた人たちがゲラサの人々に知らせると、人々はすっかり脅え、イエスに町から排斥した。これらの出来事を通して2つのことが教えられる。
第1 イエスが悪霊の願いを聞かれたことについて(マルコ5章13節)
悪霊たちが豚に乗り移った結果、たくさんの豚が死んだ。豚を飼っていた人々にとって死活問題である。イエスが悪霊たちの願いを聞かれたことに問題はないのか。
悪霊たちにとってはイエスの存在は脅威であり、私たちにとっては罪からの救いのために、この世界に来て下さった平和の使者であり救い主である。
イエスは人のために良いことを優先された。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子を信じなかったからである。」
(ヨハネ3章17―18節)
第2 ゲラサの人々の応答
豚を飼っていた人々は、悪霊に憑かれた2人がいやされたことよりも湖におぼれた大量の豚を惜しんだ。彼らの生活の糧が奪われたのは同情できても、霊的な観点としては、彼らは光よりもやみを愛した。
つまり、町からイエスを追い出した彼らは、イエスがどのようなお方であるか全く気付くことはなかった。
それは、今日でも同様ではないだろうか。最近は、宗教に警戒感を抱く人、無関心な人たちが増えつつある。
「いつの時代にも、人は自分の直接の利害の中で生きている。2人の男が正常になったことは、豚の損失という出来事のうしろに隠れてしまった。経済的なことのみが、いつでも優先する社会の姿である。全時代を通じて、豚を選ぶことによって、イエスを拒絶して来た。イエスに立ち去ることを願った結果、大きな損失に目を閉じてしまうことの悲劇に人々は気づかなかった。」(マタイの注解書からの引用)
ゲラサの人々のように大量の豚の死に目を注がず、罪人のために十字架でいのちを捨てられたイエス・キリストに目を注ごう。神の御子キリストが、私たち罪人のために尊いいのちを捨ててくださったのは、人間の命の価値は他の生き物のすべての命よりもいかに尊いものであるかを知らしめるためではないだ