「人の真価はことばによる」 マタイ12章31―37節
「そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒されたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。
『もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。』 これを聞いたパリサイ人たち言った。『この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。』」(22−24節)、そこでイエスは、「人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」(32節)と彼らを叱責された。
今回は、人々を教え導く立場にあるパリサイ人たちの失言とその要因について学ぶ。
では、彼らの問題点とは。
彼らは、悪霊に憑かれた人を癒されたことについてはノーコメント。
ところが、イエスの奇跡を見て驚いた群衆を見てコメント。彼らのコメントの背景には、イエスへの憎悪の念と妬みがあった。
そこで、イエスはパリサイ人たちの発言が赦されない理由を説明された。それは、神(イエス)について侮辱、あざけることは赦される。しかし、聖霊に逆らうことは決して赦されない。
イエスによる癒しは、だれが見ても明らかに神のみわざであるにも関わらず、悪霊の仕業とするパリサイ人たちの心の闇が諸悪の根源であった。
彼らは、まことの神の救いに導くという尊い使命があるのに、神の教えを捻じ曲げて人々を束縛していたことで、イエスが激しい口調で彼らを非難されたのは当然であった。
当時多くのパリサイ人たちが、自分の利益や、人々の賞賛を得るための偽善といった偽りの宗教家に成り下がっていた。
そのような者の心から出ることばでは、疲れた人々をいやさず、嘆き苦しむ人々を励まさず、憂いている人を慰めることはできない。
さて、イエスの十字架の贖いによって義とされ、罪赦されたゆえに、神様を知らない人々に対することばには心を配り、信徒の間においても、ことばにはお互いに気をつけたい。
“人の真価は、だれもいない所での独り言からも問われる。
「心に満ちていることを口が話すのです」(34節)。