「心のきよい者の幸いとは」 マタイ5章8節 要約 2022.7月17日(日)港キリスト教会

   「心のきよい者の幸いとは」 マタイ5章8節 

  聖書は、目に見えない霊の世界に存在する天使、サタン、悪霊の存在を明らかにし、目には見ない霊の世界を創造し、支配しておられる神を肉眼で見ることができないのは当然である。さて、けさの聖書箇所でイエスは、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」と言われた。

 では、「心のきよい者は神を見る」とはどういう意味なのか。「きよい」者とは、「心が純粋で、罪汚れのない、全き者」である。

この心のきよい者については3節から7節にヒントがある。心の貧しい者は、神の前では罪深い存在であることを知り(3節)、悲しむ者は、人に対して優しく(4節)、あわれみ深い(7節)。柔和な者はへりくだり(5節)、義に飢え渇く者は、神の義を大切にして生きる人である(6節)。

 このような人は良き品性を備え、心のきよい者と呼ばれるにふさわしい人である。しかし、それらの人に罪がないという意味ではなく、神を信じて罪赦され、信仰によるきよめを求めて生きる人である。

しかも、イエスは3節から8節で心の在り方によって神を見ることが出来ると言われている。

 では、神を見るとは、「神は生きておられるという信仰体験であり、日々の生活において神と共に歩むこと、また祈りが聞かれたという証しは、神を見る信仰体験なのである。

 主イエスは、心の伴わない宗教は災いだと言われた(マタイ23章全体)。確かに、どの宗教も心の問題を重視するが、キリスト教と他宗教との決定的な相違とは、その信仰が真実だから神を見ることができるというところにある。 

 聖書で信じる(ピストス)とは、確実で、間違いのないものを受入れる、信じても良い(価値あるもの・確かなもの)ものを信じることである。

 ところが、「すべての人は罪を犯して、」(ローマ3章24節)と教え、そのような者が神を見ることができるのは、キリストの十字架の死という贖いによる。

本来、罪人は神を見ることできない。しかし、キリストを信じて罪を赦された者は神を見ることがゆるされたのです。何よりも聖なる者と宣言してくださる神のご恩寵に感謝したい。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なる者とされています。」(ヘブル10章10節)