「なぜ、イエスは怒(いか)られたのか?」 要約  マタイ21章12-17節 2024.3/3 港キリスト教会

「なぜ、イエスは怒(いか)られたのか?」

           マタイ21章12-17節

 

この箇所は、イエスによる宮(エルサレム)きよめで、城内で売買していた人々を烈火の如く怒られた。

 では、どのような怒りだったのか。

 

❶みことばを根拠にした怒りであった

 イエスは、神の宮を強盗の巣(商売の場)にしていた人々を激しく怒られた。

 その怒りの根拠はみことば(イザヤ書56章7節)にあった。しかも、イエスが激しく憤られた直後に病んでいる人たちを癒された。正しい怒りは、周りの人たちまで巻き込まない(箴言15章18節)。

 イエスの憐れみと優しさは、いかなる時も変わることがない。 

 

❷義なるお方ゆえの怒りであった 

 イエスは義なる方ゆえに、不義や不正を見過ごすことができない。この義とは、いかに不利な立場や厳しい状況にあっても否(N O)と言える一貫性のある態度である。

 

「私たちは真実でなくても、彼(イエス)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(第2テモテ2章13節)

 

❸不正に対する怒りであった 

 ユダヤ人の信仰の中心であった神の宮が私利私欲の溜まり場に加担していた人々を怒られた。

 しかし、イエスの態度を冷ややかな目で見ていた律法学者や祭司長たちは、イエスを不当な裁判にかけた。

 そして、イエスは総督ピラトの前で「わたしが王であることは、あなたの言う通りです。」(ヨハネ18章37節)と明言された結果、十字架刑に定められたのである。

 しかし、イエスは死からよみがえり罪の赦しと天国への道を備えてくださった。

 みことばに正しいことはY E S!みことばに反することはN O!と言える勇気を持つ大切さを、宮でのイエスの言動から学びたい。

「十字架の死を前にされたイエス」 要約 ―ぶれなかったイエスの生涯― 2024.2/25 港キリスト教会                                                    マタイ21章1−11節242/25

   「十字架の死を前にされたイエス

   ―ぶれなかったイエスの生涯―

                                        マタイ21章1−11節 

 

  イエスエルサレムに入城される前、2人の弟子に近くの村に行って一頭の子ロバを連れて来るように命じられた(ゼカリヤ書9章9節の預言の成就)。

 このような不思議をなされる彼らの期待は、イエスユダヤの王、またローマの抑圧からの解放者にすることであった。

 しかし、6日後のイエスの死を知らない群衆たちは、子ロバに乗られたイエスを声高らかに賛美した。

 イエスは十字架の死の直前にも関わらず群衆たちの歓迎を喜ばれた。 

 このイエスの振る舞いにおいて、神の子としての尊厳さを見る。それは、イエスは柔和でへりくだられ、威厳をまとわれ、義なるお方であった。

 さらに、子ロバに乗られたイエスのうちに威張らず、傲慢にならず、力ずくでなく、何よりも平和を愛されるお方であること、そして十字架の死を直前にしてもぶれることのないイエスの生き様を見る。

 さて、私たちはイエスのように生きることは不可能である。しかし、聖書の教えに耳を傾け、従おうと努力することは可能ではないだろうか。

 最後に、私たちに対する神の愛について見たい。

 私たちと同じ肉体を持つイエスは、十字架刑を前にして恐れられ、もしかなうならこの苦き杯から去らせてくださいと祈られた。

 しかし、天の父の御心がなるようにと我が身を父なる神に明け渡され、私たちの罪のために十字架を背負いゴルゴダの丘に向かわれたイエスから、私たちに対する神の御愛を見る。

 それゆえに、私たちは十字架の死に打ち勝たれ墓よりよみがえられたイエスに感謝し、喜び、ホザナ、ホザナ(神を讃えよ、主よ救ってください) と賛美しましょう!

 

「わたし(イエス)に何をして欲しいのか」 要約 マタイ20章29―34節 2024.2/11 港キリスト教会

 「わたし(イエス)に何をして欲しいのか」

   マタイ20章29―34節 

 

 都上りエルサレムの道中、多くの群衆がイエスとその一行について来た。

 群衆たちは、イエスこそローマの圧政から解放し、ユダヤの王にふさわしい人物であるとの期待を抱いていた。

 その道中、イエスが2人の盲人の近くを通られ、2人は大声で「主よ。ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫んだ。それで、群衆たちは2人を黙らせようとしたが、なお大声で叫んだ。

 2人の盲人は、惨めで辛い人生を送っていた。そのような2人を見た群衆のうちに、盲人の目を開けてくださるはずとイエスに頼んであげる情けをかける者がひとりもいなかった。

 そこで、イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と2人の盲人の信仰を試して彼らの目を開けられた。

 群衆たちがイエスについて来た動機は「わたしに何をして欲しいのか」を叶えてくださることにあった。

 盲人たち(そのうちの1人はバルテマイ:マルコ10章46節)がイエスについて行った動機は目が癒されたからであった。

 さて、終末時代における今日のクリスチャンに求められるものは「わたしに何をして欲しいのか」と求める信仰だけではなく、「私は、あなたのために何をすればいいのでしょうか?」とささげる信仰も求められているのではないだろうか。

「主に仕えることの再確認」 マタイ20章17−28節 要約 2024. 2/4 港キリスト教会

      「主に仕えることの再確認」

                                                      

            マタイ20章17−28節 

 

 イエス様が十字架の死の予告の前に、ヤコブヨハネの母(網元で裕福な家庭)が「私の息子たちがあなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」(21節)とイエス様に懇願。

 何もかも捨てて従って来たのだから、それに見合うものは頂きたいという動機で、イエス様に従って来たのは他の弟子たちも同様であった。

 そのような私利私欲に振り回されていた弟子たちに「仕える」ことを教えられた。

 

 第1 なぜイエス様が「仕える」ことの大切さを教えられたのか(25節)

 

 ローマ帝国の独裁者たちに抑圧されていた民衆にとって、「互いに仕える」という教えは、心を惹きつけるものがあったと思われ、そのようなクリスチャンの生き方を見て、神を恐れ、神をあがめる人たちが起こされたのである。

「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです。」(マタイ5章16節)

 

第2に「仕える」ことの原点とは何か?(28節)

 

 イエス様こそ「仕える」姿の原点であり模範である。それは、私たちの罪の赦しために十字架で尊いいのちを捨てられたことにある。

 イエス様はへりくだりと謙遜と犠牲と罪の赦しという神の愛の実践と、救われた者への模範であった。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2章6、7節)

 

参 考:[仕える]➡️デイアコニア(ギリシャ語で給仕する、食卓に仕える。奴隷が自分の意志を殺して、ひたすらに主人のために仕える無私の心。自由意志を尊重するボランテイア精神のルーツもこの言葉から由来する。

デイアコニアの意味

❶他者の幸福を願い、他者に仕える姿勢

❷デイアコニアの対象は、苦しんでいる人であり、イエス・キリストである。主イエスに仕える心で、困窮にある隣人に仕える。

❸私たちに与えられている様々な賜物、知識、技術、財、愛の精神、生命等を人々のために役立てる。

          「キリスト新聞社1997年投稿記事より」

 

 

 

「富める青年の選択(Ⅱ)」 ―富の力とその盲点― 要約 マタイ19章16-22節 2024. 1/28

 「富める青年の選択Ⅱ」 ―富の力とその盲点―

             マタイ19章16-22節

 

富める青年がイエスに、「金持ちが天国にはいるのはむずかしいことです。」(23節)と言われた。

 なぜ、青年は天国の約束を手に入れることができなかったのか。

 

❶ 富が多いことによる錯覚による錯覚その1(16節) 

  多くの富があるという安心が神の祝福を見えなくしたのでは。

 若くして富んでいた青年の富に対する間違った価値観(錯覚その1)によって、永遠のいのちを自分のものにできなかった。お金や富について正しい価値観を持つことことは非常に大切なことである。

 

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16章26節)

 

❷ 富が多いことによる錯覚その2(20節)

 

 使徒パウロは、自ら生粋のパリサイ人、何の落ち度もなく、ある面では完璧な人間であると自負していた。

 しかし、ダマスコの途上にてイエスの栄光に照らされて自分のはかなさ、小ささ、惨めさ、横柄さを知った。

 富める青年は、いかなる神の戒めも守っていると自負し、自分は正しい人間だから多くの富を手にしていると思っていたようである(錯覚その2)

 聖書は、「義人はひとりもいない」(ローマ3章10節)、また「人は信仰によってのみ義とされる」(ローマ書5章1節)と教えている。

 

❸ 富が多いことによる錯覚その3(22,27節)

 

 青年は、富こそ人の心を満たし、人生を豊かにするものと思っていたのでは(錯覚その3)

 

栄華を極めたソロモン王は、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。

 富を愛する者は収益に満足しない。これも、またむなしい。」(伝道者の書5章10節)と語っているが、富める青年にとって天上の祝福は絵空事であった。

 もし、青年が富を握り締めていた手を開いてイエスを信じるなら、永遠のいのちを手にしたのである。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」

          (マタイ13章44節) 

「富める青年の選択(Ⅱ)」―救いのチャンスを逃さないようにー 要約 マタイ19章16−22節 2024. 1/21 港キリスト教会

「富める青年の選択(Ⅱ)」―救いのチャンスを逃さないようにー

                                      マタイ19章16−22節 

 

 多くの財を持つ指導者(役人、高官)であった青年が、永遠のいのちを得る方法をイエスに尋ねるも、それを手にすることが出来なかった。どのような理由があったのか。

 

第1の理由は青年の自負心  

 永遠のいのちを得るのに何をすれば良いのかとの青年の質問に、イエスは律法の重要な戒めを守りなさいと教えられたが、戒めは小さい時から守っているという自負心を青年は抱いていた。

 そこで、イエスは神の戒めを完全に守っているなら、自分の全財産を売り払って、貧しい人々のために役立てなさいと提示された。しかし、彼はこのことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った(マルコ10章22節)。自負心は、完全であれという律法の要求を満たすことはない。

 

第2の理由は青年のプライド

 パリサイ人の老人ニコデモは、人目を憚って夜にイエスを訪問し、イエスがなされた奇跡を高く評価していた。彼は良い行いや聖書の知識では救いの確信を得られなかった。

 しかし、2年後彼は自ら名乗り出て、イエスのご遺体を葬った。人目を憚っていたニコデモは、奇跡をなされるイエスから救いの確信を得た

 ところが、多くの財と高い身分を享受していた青年は、全財産を人々に分け与えた上でわたし(イエス)に従うなら永遠のいのちを得るとの勧めに従えなかった。彼の高いプライドがイエスにある永遠のいのちを見えなくした

 

第3の理由は彼の執着心によって

 富める青年は、イエスの「完全になりたいなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。

 そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、私に従って来なさい。」とのことばに従うことができなかった。

 イエスのことば(みことば)によって、彼の心に潜む執着心を明らかにされた

 

 私たちの自負心は神様の恵みを無関心にし、高いプライドは聖書の真実を歪め、執着心は天にある宝を見逃してしまうのである。