「その民は、みな安らかに住んでいる」 預言セミナーより 2022.5/15 港キリスト教会にて

「その民は、みな安らかに住んでいる」 

 

 私が26歳の時に、田原本キリスト教会(大和聖書教会)に行った時のメッセージはダニエル書でした。講壇の近くに複雑な図が貼っていったのですが、ダニエル書の預言に関するものであることを神学校の講義で知ったのです。牧師になってからも、しばしば聖書預言を用いての個人伝道をしておりました。

 さて、初めて教会に行ってから45年の歳月が過ぎ、世界情勢が今まで以上に非常に緊迫して来ました。最近Uチューブでは、ロシアによるウクライナ侵攻に関する話題も多く、なかには怪しげな情報があり、クリスチャンも気を付けなければなりません。例えば、第三次世界大戦が起こるのでは、核戦争が始まり世界が滅亡するといった動画も見受けるからです。

 聖書預言を学ぶ際の私的解釈は要注意です。「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。」(ペテロ第一1章20節)

 では、解釈の難しい聖書預言を学ぶ重要性とは何でしょうか。

 ちなみに、聖書の中に「愛」は571回、「預言」は565回使われ、ほぼ同数です。言うまでもなく、聖書の中心テーマは神の愛でありますが、預言もまた聖書の重要テーマと思われるのです。

 旧約時代において、神の警告により、イスラエル国家が危機から救われた事例が数多くあります。

 そして、今日終わりの時代に生きるキリスト者として、聖書預言について無関心であるなら、神様が聖書を通して発信しておられる終末時代をいかに備え、いかに生きれば良いのかを見失い兼ねないのです。

 今年2月24日(木)、ロシア軍がウクライナを侵攻しました。4月上旬の時点では、停戦、休戦の交渉も断ち切れ状態です。ロシアの侵攻が長引くと、世界は食糧危機やエネルギー危機を招くのではと専門家たちは危惧しているのです。

 さて、エゼキエル書38章(約2600年前の書)は、エゼキエル戦争と言われるもので、ロシア(異説あり)を中心に幾つかの同盟軍がイスラエルを侵攻するという預言であります。

 この紙面では、侵攻されるイスラエルについてどのように預言されているかにとどめたいと思います。

「多くの年月の後、おまえは、一つの国に侵入する。そこは剣から立ち直り、多くの国々の民の中から、久しく廃墟であったイスラエルの山々に集められた者たちの国である。その民は国々の民の中から導き出され、みな安らかに住んでいる。」

(エゼキエル38章8節)

 ロシアの同盟軍が侵攻する国とはイスラエルである。約1900年間祖国を失っていましたが、1948年5月14日にイスラエル国家が再建され、その後、第1〜4次中東戦争が起こりましたが、現在のイスラエルは、世界最強と言われる防空システムアイアンドーム(鉄のドーム)が設置され、食料自給率は90%以上。近年、パレスチナとの国境には巨大油田、地中海近海には天然ガス油田が発見され、天然ガスにおいてはエジプト、ヨルダンに輸出するほどであります。

 イスラエルの歴史の中で、みな安らかに住んでいる時代とは、まさに今日のイスラエルであることに疑いの余地はないのです。

 ロシアと同盟軍がイスラエルに侵攻する日がいつであるかは分かりません。しかし、今後のウクライナ侵攻の動向から、エゼキエル書38章の預言を読み解く鍵があるのかも分かりません。

「しかり、わたしはすぐに来る。」

アーメン。主イエスよ、来てください。  

(黙示録22章20節)

 これからの世界情勢・聖書預言セミナー(20回)のご案内

 永遠のベストセラーである聖書は、神からの預言書である。AD70年ローマ軍によって、エルサレムは崩壊し、ユダヤ人は全世界に離散。それから約1900年後1948年5月14日にイスラエル共和国が誕生。この出来事は、聖書の預言の成就である。今回は、今日のロシアによるウクライナ侵攻が、聖書預言のロシアと同盟国によるイスラエル侵攻(エゼキエル戦争)後、全世界が患難時代を迎えるのか等々学びます。

                                 場所  MB港キリスト教会 

    港区三先1丁目14−13   

       ℡ 06-6571-4087       

日時  5月15日(日)

    午後1時〜2時15分       

対象  聖書を全く知らない方〜              

*当教会は、約500年前に宗教改革

 生まれたプロテスタントの群れです。

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「恵みのわざにも富むように」要約 第2コリント8章1—7節 2022.5.1 港キリスト教会

「恵みのわざにも富むように」

 第2コリント8章1—7節

 

 経済的に困窮していたエルサレム教会へのパウロ献金の勧めについて学ぶ。

1節:無割礼者をキリスト者と認めないユダヤ人信者と対立するマケドニヤの異邦人諸教会の模範的な献金状況を知らせた。

2節:それらの教会が豊かで、余裕があったからエルサレム教会を援助をしたのではなく、信仰の試練の只中での献金であった(第1テサロニケ2章14節)。彼らが困窮している教会を助けることが出来たのは、彼らのうちに信仰から来る喜びがあった。その喜びには、苦しみや困難や悲しみを乗り越えるパワーが秘めていた。

3節4節:彼らは自発的に、また自分たちの力量を超えて惜しみなく献げた。しかも、彼らは献金依頼を受けたからではなく、自ら献金の恵みにあずかりたいと熱心にパウロに嘆願していた。

5節:彼らが力以上にささげた秘訣とは、まず自分自身を主にささげていることにある。「パウロを喜ばせたのは、彼らの献金の奥にある彼らの献身であった。」と注解者が語っている。献身と献金は一体であり、牧師や宣教師になるだけが献身ではなく、主のために生きること、主とともに生きることも献身である。

6節:献金要請はテトスの下で進められていたが、パウロはその奉仕を完結するように勧めた。

7節:パウロは、信仰による愛があふれる(分かち合い)だけでなく、信仰に裏打ちされた恵みのわざ(献金)においてもあふれるように(分かち合う)なってくださいと勧めている。

「愛なる神を畏れて生きる」要約 第2コリント6章14−7章1節 2022.4/24 港キリスト教会

 「愛なる神を畏れて生きる」 

第2コリント6章14−7章1節

 

聖書が勧めるクリスチャンの生き方について、けさの箇所からご一緒に見て行きましょう。

 第1に、クリスチャンとノンクリスチャンについて

(14、15節)

  クリスチャンという名は、周りの人たちの皮肉を込めた呼び名である(使徒11章26節)。初代のクリスチャンは、いつでも、どこでも熱心にイエスのことを語り、14節の不信者とは、神に対して反抗的、あるいは攻撃的な態度を取る者であり、まことの光であるイエスを拒み、闇を愛した(ヨハネ3章19節)パリサイ人や律法学者たちは不信者であった。

 しかし、家族の人や家族以外の身近な人が、真理を知らずにキリスト教に対して反対や反感を抱いていても、不信者ではなくノンクリスチャンであり、神様に愛され、福音を伝える対象者である。

 

第2に偶像について(16—18節)

 偶像礼拝は、人よりも劣るものをあがめる行為であり、それは人としての価値を損ね、無価値なものにする(詩篇115篇2−8節、イザヤ44章9−20節)。何よりも、偶像礼拝は神様が深く悲しまれるだけでなく、無知な心をサタンに弄ばれ巧みに惑わされている状態である。

 偶像礼拝は真理の道ではなく、サタンの道連れとなって永遠の滅びに至る道であり、偶像礼拝から得るものは偽りの豊かさであり、まことの礼拝から得るものは真の豊かさである。

第3は神を恐れかしこみ、聖なる者となる(7章1節)

 私たちの罪が支払う債務とは、神のさばき(死後の永遠の滅び)である。そのさばきから逃れるために、キリストが十字架で身代わりとなられた。

 その方が、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(第一ペテロ1章16節)と勧めておられる。

 聖さは難行苦行といった修練ではなく、みことばの力によって得ることができる。それは、みことばの約束への全き信頼と従順である。

「どのようにして若い人(老弱男女)は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」(詩篇119篇9節)

「愛なる神を畏れて生きる」要約 第2コリント6章14−7章1節 2022.4/24 港キリスト教会

「愛なる神を畏れて生きる」 

           第2コリント6章14−7章1節

  聖書が勧めるクリスチャンの生き方について、けさの箇所からご一緒に見て行きましょう。

 

第1に、クリスチャンとノンクリスチャンについて

   (14,15節)

 クリスチャンという名は、周りの人たちの皮肉を込めた呼び名である(使徒11章26節)。初代のクリスチャンは、いつでも、どこでも熱心にイエスのことを語り、14節の不信者とは、神に対して反抗的、あるいは攻撃的な態度を取る者であり、まことの光であるイエスを拒み、闇を愛した(ヨハネ3章19節)パリサイ人や律法学者たちは不信者であった。

 しかし、家族の人や家族以外の身近な人が、真理を知らずにキリスト教に対して反対や反感を抱いていても、不信者ではなくノンクリスチャンであり、神様に愛され、福音を伝える対象者である。

 

第2に偶像について(16—18節)

 偶像礼拝は、人よりも劣るものをあがめる行為であり、それは人としての価値を損ね、無価値なものにする(詩篇115篇2−8節、イザヤ44章9−20節)。

 何よりも、偶像礼拝は神様が深く悲しまれるだけでなく、無知な心をサタンに弄ばれ巧みに惑わされている状態である。

 偶像礼拝は真理の道ではなく、サタンの道連れとなって永遠の滅びに至る道であり、偶像礼拝から得るものは偽りの豊かさであり、まことの礼拝から得るものは真の豊かさである。

 

第3は神を恐れかしこみ、聖なる者となる(7章1節)

 私たちの罪が支払う債務とは、神のさばき(死後の永遠の滅び)である。そのさばきから逃れるために、キリストが十字架で身代わりとなられた。

 その方が、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(第一ペテロ1章16節)と勧めておられる。

 聖さは難行苦行といった修練ではなく、みことばの力によって得ることができる。それは、みことばの約束への全き信頼と従順である。

「どのようにして若い人(老弱男女)は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」(詩篇119篇9節)

 

「イエスの復活」―失望から希望へ― ルカ24章1−12節 要約 2022.4/17 港キリスト教会

「イエスの復活」―失望から希望へ―   

               ルカ24章1−12節 

 復活されたイエスに出会って弟子たちを一変させた復活信仰による3つの力について学びましょう。

 

第1エスの復活は失望を希望に変える力(1−4節)

 7つの悪霊につかれていたマグダラのマリヤは、イエスによって悪霊どもを追い出して頂き、絶望から希望のある人生へと変えられた。

 ところが、イエスの死は彼女にとって大きな失望となった。ところが、彼女が一人墓の前に佇んでいた時に、復活の主が現れて、「なぜ泣いている(泣き叫んでいる)のですか」(ヨハネ20章13、15節と声をかけられた。

キリストの復活によって絶望や失望は葬られた!

 

第2エスの復活は死から新しいいのちに変える力

(5−8節)

 マグダラのマリヤにとってイエスの死は全ての終わりだった。死は誰も避けることはできないが、死は終わりではない。

 死後、罪による永遠の死(地獄)を避けることは出来る。「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかにされたのです。」(テモテ第Ⅱ1章10節) 

キリストの復活によって死は葬られた!

 

第3エスの復活は不信仰に打ち勝(9−12節)

 生前イエスは、3度ご自身が死からよみがえることを弟子たちに語っておられた。しかし、イエスがよみがえられたという女たちの報告を聞いた弟子たちは、たわごとのように思えた。

 しかし、その後、復活のイエスと生活を共にした弟子たちから、不信仰という言葉は消え去った。

キリストの復活によって、不信仰は葬られた!