「幕屋から学ぶ霊的真理(Ⅳ)」  —信仰の土台について—  出エジプト記36章20—38 26/8/2 港キリスト教会 

     「幕屋から学ぶ霊的真理(Ⅳ)」

      —信仰の土台について—

  出エジプト記36章20—38   

 自然界に存在するすべてのものは、それぞれに何らかの意味があるのです。 例えば百害あって一利なし、バイ菌だらけのゴキブリを神様はなぜ造られたのか。実は、ゴキブリの種類は4000以上あって、その多くは森に生息し、その繁殖力と消化力によって菌類、樹液、倒れた木々、死骸、糞を食して分解して、再び大地の栄養に還すという役割を果たしているのです。

 まして、神様が指示された幕屋造りでのすべての材料、また形作られる一つ一つのパーツ、そして完成した幕屋には霊的な意義があると思われます。けさはそのことを前提として学びましよう。

 前回は聖所と至聖所を覆う4枚の幕の意味ついて学びました。

 けさは聖所と至聖所の枠組みに用いるⅠアカシヤ材、それを立てる台座横木、次に聖所と至聖所を分けるⅡ垂れ幕から信仰生活にいかに適用するのかを学びましょう。

 

第 Ⅰ 聖所と至聖所の枠組み

❶アカシヤ材(20節) それを真っすぐに立てる

❷銀の台座(23節)

❸横木(31節)です。

 

❶ アカシヤ材(20節)は安価で、重く、硬く、強い木で、腐りにくく、湿気に強いという特徴があります。また、荒野に生育していて容易に手に入り、他では契約の箱や祭壇等に使われたようです。

 また、アカシヤ材は真っすぐに立てることから、神と人間との関係を表すと解釈されます。本来、人は神様の前に真っすぐに立てない存在です。しかし、贖い(十字架で罪の身代わりの死を遂げられた主イエスは贖い主)のゆえに、罪人は神様の前に真っすぐ立つことが出来るのです。 

 家の土台が歪んでいるなら柱は真っ直ぐ立たないばかりか、住人の健康も害します。

 では、信仰者にとっての土台とは何か。それは、みことばであり、その土台が何であるかによって人生の方向が全く違って来るのではないでしょうか。

 イエスは、大雨と強風と洪水によって砂の上に立てた家は壊滅し、岩の上に建てた家(マンハッタンの摩天楼)は倒れなかったと話されました(マタイ7章)。 それは、神様のみことばを聞き、聞くだけでなく行なう人であると教えられたのです。「これこそ悩みのときの私の慰め、まことにみことばは私を生かします。」(詩篇119篇50節) 「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主により頼む者は幸いである。」(箴言16章20節)

 この聖書は私たちの人生の道しるべ、ゆるぎない人生を歩むための案内書(ナビゲーター)であります。

 

❷ 銀の台座(24節)は、アカシヤの板を真っすぐに立てるためのものです。では、銀の台座は何を意味するのか。半シエケルの銀(贖いの金額)を登録された20歳以上の者の人数分の銀を使って、一枚の板に2タラントの銀で50枚(A I=約685万円?)の台座を作ったのです(参照⇨30章11節〜、38章25-27節)。アカシヤ材の枠板は銀の台座によって支えられて、真っすぐに立てられたのです。

 ここにも私たちの人生の土台について教えています。贖いの銀貨を用いた銀の台座は、私たちの罪の贖い主であるイエス・キリストを指しているのです(参照:Ⅰペテロ第1章18〜)。

 人生を真っすぐに歩むためには、キリストから目を離してはいけないのです。 

 人生の重荷をイエス・キリストにおゆだねし、明け渡して生きるというのは幸いな人生を送るための秘訣ではないでしょうか(参照:詩篇37篇5節、55篇22節)。

 

❸ 横木(31節)は、組まれたアカシヤの板枠をより強くするために必要です。そして、その横木には回りの見える横木と、見えない中央の横木があり、ある学者は、見える横木は教会を指し、見えない横木は聖霊と解しています。少し無理な解釈かもですが、横木の適用としては、イエス・キリストを人生の土台としたクリスチャンは信仰の成長のために必要なものです。神様との交わり、クリスチャン同士の交わり(マタイ18章20節)、そして聖霊とみことばによる交わり(静まり)です。クリスチャンは一人で成長するというのは妄想であり、それはみことばから逸れた人生を歩むことになるのです。

 

第Ⅱ 垂れ幕(聖所と至聖所の仕切り)

垂れ幕そのものはキリストを象徴し、ケルビムは神のさばきの使者である天使を象徴し至聖所を守っているのです。垂れ幕は神様と人との仕切りとなっていることを表し、それは神様と人間との断絶状態にあるのです。

 実は、イスラエルと神様との関係は断絶状態であったのです。しかし、大祭司が年に一度民の贖いのために聖所の中に入り、罪を贖う儀式により神様と民との関係が修復(赦し)されたのです。

 異邦人もまた神様との関係は断絶状態でしたが、イエス・キリストが神様と人との仲介者となられ、神様と罪人である私たちとの関係を修復してくださったのです。イエスが流された血の犠牲、つまり命をささげられたことにより、私たちは神様との和解の道が備えられたのです(第一ヨハネ4章10節)。

 けさは、枠組みに用いられたアカシヤ材を真っすぐに立てる銀の台座。アカシヤ材の枠組の板をより強くするための横木。そして垂れ幕について学びました。

 先行き不安な時代の中、イエス・キリストへの信仰を土台とし、礼拝を通して神様との交わりを深め、皆さんとの交わりを通して共に祈り合い、共に励まし合っていきましょう!

「神の幕屋 (Ⅲ)」-幕屋からキリストを見る- 出エジプト記36章8—19節 26.7/5(日) 港

   「神の幕屋 (Ⅲ)」-幕屋からキリストを見る-

         出エジプト記36章8—19節

 

 「幕屋は旧約における福音の提示と言えるほど重要なもので、神は幕屋を通して大切な事を教えようとされたのは明らかである。」と注解され、因みに、「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1章14節)の「住まわれた」は、「幕屋を張る」と訳すことから、幕屋建設にはイエス・キリストの型を見ることができるのです。まず、聖所と至聖所を覆う4枚の幕は主の命じられた通りに造られたのです(参照:25章9節、40節、26章30節、27章8節)。では、幕屋の聖所と至聖所を覆う4枚の幕(8、14、19節)にはどの様な霊的真理が隠されているのか。

 

第1の幕 美しい模様で高価で、亜麻布5枚一組とさらに5枚一組とをつなぎ合わせ、各一枚は縦12.32m、横1.76mとし、上下に等身大のケルビムを刺繍。

 

第2の幕 山羊の毛で織った幕で、今日でもアラブ人が天幕の布地を織るのに用い、風雨に対して耐久性があり、計11枚を一組とし、縦13.2m、横1.76mとし、2枚目の幕は1枚目よりも2キュビト(44㎝)長い。

 

第3の幕 赤くなめした雄羊の皮

 

第4の幕 ジュゴンの皮。第1の幕は第2、第3、第4の幕で覆われ守られていた。

 

次に幕建設の詳細について見ましょう。

第1 すべての幕は神の指示通りに

 ノアも神様の指示通りに箱舟を造った。それは、どれほどの規模の洪水が起こるかは神だけがご存知ゆえに、船の規模、形、材料等は神の設計に従ったのです。ノアが想像する船では大洪水に耐えられなかったのです。神がイメージされた船は、見栄はしないのですが、各種の生物が船に入るのに十分な広さで、激しい波で船が沈まなければ十分。操縦する必要もなかったのです。ちょうど波に弄ばされて浮かぶ石油タンカーのようなものです。神の命令通りに造られた箱舟は大洪水でも決して沈まなかったのです。ノアの家族は神の御声に従うなら最善をなされると固く信じて箱舟を造ったのです。「なぜ」ではなく「最善」をなされる神にすべてをお任せしたのです。

 私たちの信仰生活も同様です。なぜこんなことが起こるのかと疑心暗鬼になり、不平不満を口にすることはないでしょうか。なぜか分からない。しかし、私たちが「なぜ」と思う時でも神は最善を成してくださると信じ切れるなら幸いです。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」(箴言16章9節)

 

第2  幕屋に見るキリストの予型

第1の幕 亜麻布、青色、紫色、緋色、ケルビム、金の留めと青いひもであります。幕屋の一番内側にあった(8—13節)。 まず亜麻布ですが、「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19章8節) 『撚り糸で織った亜麻布は、主イエス・キリストのしみも傷もない聖い人間性を象徴し、「あなたの祭司たちが義を身にまとい」と詩篇132篇9節に記され、祭司たちは亜麻布の衣を身にまとったことを私たちは知っている。「その亜麻布が、この世の歩みにおける聖さを象徴することを裏付ける記述である。キリストの生涯には全く罪がなく、聖いものであった。」』 青色は主イエス・キリストの人間性のうちに天に属する性格を示している.主はベツレヘムで処女マリヤから人としてお生まれになったが、その生涯に現された徳性は、生まれながらにして天に属するものであった。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者、人の子は別です。」(ヨハ3章13節)』 以上「幕屋』P.75より 

 紫色は王位、王権を表している(マルコ15章17節)。緋色は贖いの血。ケルビムはさばきを表し(創世記3章24節)、聖所を守る務め。金の留めと青いひもは神の義と神のあわれみを表し、これらのゆえに神と私たちが保たれている。

第2の幕 ヤギの毛の幕です。それは預言者キリストを示すものであります(マタイ3章4節、第2列王記1章8節)。

第3の幕 赤くなめした雄羊の幕です。それは、はキリストの従順を示します(レビ記8章22節)。十字架の死まで従われ、犠牲の血を流されたキリストを示すものでは。

第4の幕 ジュゴンの幕。あざらし、いるか?(エゼキエル書16章10節)幕屋の外側の覆い。ジュゴンは見栄えは良くないが、硬くて、強くて丈夫。キリストは神の御子でありながら、見栄えのしない、弱い小羊のようにほふられたのです。

*引用➡️(イザヤ書53章2、3節)

 

 これらの4つの幕はキリストについての真理が示されていると思われます。外から見て、あまり格好の良いものではなく、また美しいものではないが、ひとたび内側から見る時(祭司のみ見ることが赦されている)、7つの燭台の光によって、実に美しい幕を見ることができるのです。これらのことから2つの霊的真理が導かれます。

 

私たちクリスチャンは、外面ではなく、内面を大切にします(第2コリント4章16—18節)。内面とはキリストを救い主として受け入れた心を表します。

 

4枚の幕には様々なものが用いられ、その特徴が生かされている。まさに教会とクリスチャン一人ひとりを指しているのです(第1コリント12章18—27節)。

  荒野での幕屋は、神が語られた通りに造られたゆえに、それはやがて来られるキリストを指し示しているのです。もし、幕屋造りにおいて、わずかでも人の思いが入るなら幕屋からキリストを指し示すことができなくなるのです。

 キリストは、私たちの願いや、希望や、思いによってこの世界に来られたのではなく、万軍の主の熱心と一方的なご愛によりこの世界に来られたのです。

 そして、私たちが罪から救われるために、キリストは十字架の死にまでも従われたのです。私たちの救い主であるイエス・キリストを心から褒め称えましょう!

「幕屋の建設(Ⅱ)」-神の霊に満たされて-     出エジプト記35章30−36章7節       26.6/7(日)港キリスト教会

        「幕屋の建設(Ⅱ)」  -神の霊に満たされて-    

             出エジプト記35章30−36章7節

           

  ダビデ王は王国を統一してエルサレムを都と定め、息子のソロモン王はエルサレム神殿(紀元前1027頃)を建設して国家の黄金期を築き上げる。

 そしてB C586年にバビロン帝国によって神殿が破壊されるが、次にバビロン帝国を打ち倒したペルシャのクロス王が神殿の修復(再建=ゼルバベルによる第二神殿)を許可。

 その後、ヘロデ大王(イドマヤ人←エドム人←エサウ)が神殿の大修復(紀元前20年ごろ〜 ヘロデ神殿)に取り掛かり、イエスが話されていた神殿とは、ヘロデ大王による神殿修復の時(完成は63−64年)でした。

 このように、イスラエル人にとって神殿は、神様の栄光を目の当たりに体験できる偉大で壮大な宗教的建造物でした。

 それゆえに、今日のユダヤ人たちは神殿の再建(第3神殿)を切望しているのです。

 近年はその機運が高まり、まさに世の終わりが近づいているという兆しかも分かりません。

 では本題に入ります。

 

 モーセはシナイ山にて神様より幕屋建設の指示を受けたのです。

 35章1−29節は材料集めです。これらの材料は、エジプト脱出時に神様からエジプトの財宝を持ち去るようにと命じられたのですが、彼らがエジプトで奴隷として働いたことによる対価なのです。

 それらを民が進んでささげた結果、幕屋建設の必要が全て賄われたのです。

 つまり、神様は幕屋建設に必要なものを前もって備えられていたのです。

 神様は私たちの先々の必要も知っておられるだけではなく、時が来れば必要なものを備えてくださるのです。

 アブラハムが刃物をとってイサクを屠ろうとした時に、御使いはアブラハムが神を恐れていることが分かり、その子に手を下してはならないとストップをかけたのです。そして、角を藪にひっかけていた雄羊を息子の代わりに生贄として神様に献げたのです(創世記22章1−14節)

 「アドナイ・イルエ=主の山には備えがある」(14節)

私は退職後の住居や生活費等、色々と心配事があったのですが、今振り返ると神様は私たちの先々を備えてくださっていたことに感謝する次第です(ペテロ第一5章7節)

 

 さて、35章30節から36章7節は集められた材料を使っての幕屋づくりです。

 そこで神様は、設計、施工に巧みなユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエル(神の陰にいる者、神の保護の意)を召されたのです(30節)

 次に、ダン部族からオホリアブ(私の天幕は神であるの意)を召されたのです(33節)

 ベツアルエルは技術長(頭領)、オホリアブは助手(副頭領)として働いたようです。

 31節を見ると、神様がベツアルエルに匠の能力を与えられたかのように解されるのですが、実は彼はもともと高い技術能力を持っていたと思われます。

 それは、本来持っていた能力が奴隷の時により磨かれたと思われます。

 しかし、彼が他の人よりすぐれた能力を持っているだけでは神の奉仕はできなかったのです。

 幕屋の建設では霊的な備えが不可欠で、神様は知恵と英知と知識とあらゆる仕事において主の霊で彼を満たされたのです(31節、35節、36章1節)

 自分の能力を神様のために用いられるためには、主の霊に満たされる必要があったのです。

 その人の才能がほめられるためではなく、その才能が神様のために用いられて、神の御名がほめたたえられるのです。

 すぐれた知恵で満たされたオホリアブ(副頭領)も同様であります(36節)

 他の人よりもすぐれた才能や能力があることで誇り過ぎることに注意が必要です。

 自慢は高慢につながり、それが人をさばく材料になってはいけないのです。

 さて、二人の匠は幕屋を造るための設計部門で用いられたのです(35節)

 そして、神様はそれを造り上げていくための技術者を求められたのです。

 それは、神様が聖所で奉仕できる知恵と英知を与えられた者、そして心に知恵ある者でした(35章35節、36章1節)

 さらに、神様がこのように技術者を求められての幕屋造りに感動して、自ら進んで仕事をしたいと申し出た人たちをモーセは呼び寄せたのです。

 感動する心と自発的な心で奉仕をする大切さが教えられます。私たちも神様のためにという熱い思いを失わないようにしたいものであります(2節)

 ふたりの指導者と調度品を造る匠が集められたと同時に、その必要な品物も民は自ら進んで持って来たのです。

 それを、朝ごとにささげられたのです。ところがある日に、幕屋の仕事をしていた人たちがモーセの所にやって来て、「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」(5節)と告げたのです。

 幕屋建設のための必要は十分満たされたので、民は奉納物をささげることを中止したのです(5—7節)

 ここで、神様のためにささげる(奉仕)心得について教えられます。

 自分ひとりぐらいという思いが集まると、その最悪の結果は何も集まらないということです。

 しかし、自分がささげようという思いが集まると有り余って、ささげることが中止されるほどに祝福されたのです。

 けさの学びには、教会を建て上げるための大切なヒントがありますね。

 それは、誰かが何とかしてくれるという思いの集まるのではなく、私も祈り、ささげようという思いが集まることで神様の祝福を受けるということではないでしょうか。

  「神の幕屋の今日的意義(Ⅰ)」  —教会形成での大切な心得—   出エジプト記35章1—19節 26.5/3 港

    「神の幕屋の今日的意義(Ⅰ)」   

     —教会形成での大切な心得— 

             出エジプト記35章1—19節 

 

 今年のG Wで12連休の会社もあるようですが、連休明けは憂鬱になる人が多いようです。やはり、適度な労働時間と適度な休みが大切ということでしょうか。

 ところで、江戸時代以前は曜日ではなく、明治になって欧米諸国との交流において、一週並びに日曜日は休日の必要性に迫られたのです。その様な経緯ゆえに、今なお日曜日は休日で、週の終わりといった概念を持つ人が多いようです(1年354日の旧暦で一部の役人や職人(1、6、16、21、26日が休み)。

 ところが、今からおよそ3500年前に休日の概念があったのです。それは、幕屋の建設での安息日(土曜日)遵守でした。 

 けさは、安息日と今日の日曜日とは関連することを前提にして、神の幕屋建設での心得について見て行きましょう。

第1の心得 安息日の遵守(2—3節) 

 大国エジプトで430年間奴隷であったイスラエルの民は、一日も休めない過酷な労働に強いられるなか、夕べのひと時が彼らの唯一の安息でした。ところが、神からの任を受けたモーセによって奴隷から解放されて、イスラエルの民は晴れて自由の身となったのです。

 しかしながら、民に与えられた自由とは自己本位的なものではなく、神を忘れず、神とともに生きる中で享受(謳歌)する自由です。 それゆえ、彼らが神と共に生きることを心に留めるために安息日が必要でした。

 では、なぜ「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」が大切なのか。

 もちろん一日一日が大切です。でも、安息日を優先し、神を礼拝して民が心身ともに養われるためでもあったのです。

 もし、民が40年間荒野でさまようなかで、安息日を設けないなら、周期的な曜日も分からず、荒野での生活にメリハリもなく、だらだらと毎日が過ぎ、心身共に悪影響が及んだことでしょう。

 つまり、安息日遵守は神を忘れないために、また厳しい荒野で神と共に生きるためだと思われるのです。

 さらに、モーセが幕屋建設で安息日の遵守を命じたのは、幕屋は単なる建物ではなく、神が宿る霊的な建物であることを心に留めるためだと思われ、そして幕屋建設は神の祝福にあずかるものでした。

 私たちも、主の日(聖日)に神を礼拝し、共に交わり、一人ひとりの賜物が生かされ、また奉仕して教会を建て上げることで、神の祝福にあずかるのです。

 さて、今日のユダヤ人は土曜日安息を大切にします。しかし、彼らがあまりにも安息日厳守に固執し過ぎて、その真の意義を見失っているのではと思うのです。でも、安息日or日曜日を大切(遵守)にするのは、神の愛と慈しみ、また神の恵みを忘れないためであり、さらに罪人のために尊い命をささげられた御子イエスを信じるなら永遠のいのちにあずかるという神の愛と恵みへの応答であります。

第2の心得 心から進んで献げる(4—9節)

 5節の心から進んでの英語はWiling(自発的な、進んで、喜んで、快く)で、ボランテイアとの違いは、ボランテイアは自由意志による選択によって行なわれるもので、Wilingは第3者との関わりにおいて、他人の希望や指示などを嫌がらずに喜んで従うということにあります。

 心から進んでとは、だれの意思も評価も介入できないもので、だれかと比べるものではなく、それは人に向かう心ではなく神に向かう心であります。

 そして、神が私たちに与えてくださった自由とは、神のためにしてもしなくても良い自由ではなく、嫌々ながらでなく、喜んで心から自発的にささげるものです。神はそのような心を喜んでくださるのです。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい。」(ガラテヤ書5章13節) これらの心がけは、教会の奉仕や献金においての大切な信仰姿勢ではないでしょうか。

第3の心得 心に知恵ある者の手で(10—19節)

 幕屋建設のために必要な材料を進んで献げるだけでなく、その材料がうまく用いられないといけないのです。

 そのために心に知恵ある者(36章1節参照)の匠の手が必要としたのです。

 教会も同様に、ささげる人が必要だけでなく、ささげたものを正しく管理する人(会計の大変さ)、また効果的に運営する人が求められるのです。  

 さらに、モーセの幕屋建設において心に知恵ある者を神が備えられたのです(36章1節)。

 つまり、各自の賜物が有効に活用されることが大切であります。しかし、そのような賜物は初めから備わるものでなく、奉仕する中で神から与えられていくものであります。

 また、いかなる奉仕にも優劣はないのです。そして、奉仕において大切なことは、奉仕をする人の心構え(神と人に対して)であります。

 なかには、何の奉仕もできないという方がおられるかも分かりません。でも、教会にはとても大切な奉仕もあるのです。

 それは祈りという奉仕であります。祈りはクリスチャンに与えられた最高の特権であります(今週から交わりの後の祈り会はとても大切だと思います)。

 何よりも、礼拝を(真の安息日)を大切(優先)にし、そして、神がそれぞれに与えられた賜物を用いて奉仕するなかで、主の教会が建て上げられていくのです。

 そのために教会に集われている皆さま一人一人が必要とされているということを心に留めて頂きたいのです。

「復活のイエスに最初に出会った女」 ヨハネ20章1―18節 26/4/5 港

「復活のイエスに最初に出会った女」 イースター礼拝

         ヨハネ20章1―18節 

 

イエスが十字架で死なれたのが金曜日の安息日の直前(金曜の日没〜土曜の日没)、それで、イエスの弟子であった女たち(マグダラのマリア、ヤコブの母、ヨハンナ、女たち)イエスを葬る(ご遺体に香料を塗る)ために日曜日の朝まだきに墓に着くと、墓の前の大きな石が取り除けられ、しかもイエスのご遺体がなかったのです。

 

 そして、女たちからその出来事を聞いたペテロとヨハネは墓まで急いで走り、そこで、イエスの頭を包んでいた布と亜麻布の状況を見て信じたのです(7節)。

その後、マリアは空っぽの墓の前で一人泣き崩れていた時に2人の御使いに遭遇し、そしてよみがえられたイエスにお会いするのです。

けさは復活のイエスに最初に出会ったマグダラのマリアから学びましょう。

病を癒やされたイエスに感謝と応答

 かつて、マリアは7つの悪霊に取り憑かれ悲惨な人生を送っていた。しかし、誰一人彼女を助けることができなかった。

 ところが、イエスがマリアに取り憑いた悪霊を追い出されたので、彼女は生きる力と希望が与えられたのです。それで、彼女はイエスに感謝するだけでなく、宣教の旅にも同行しイエスの身の回りのお世話をしたのです(ルカ8章2〜)。

 イエスに癒されたマリアにとって当然の行為でしょう。でも、こんな事があったのです。@ある村にて、イエスは10人のらい病人をいやされました。しかし、そのあとイエスの所に来て感謝を表したのは、ひとりのサマリヤ人だけでした。「すると、イエスは言われた。「10人きよめられたではなかったか。9人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」(ルカ17章11節18

 当時、ユダヤ人は神の選民という恵まれた国民でした。ところが、引き返してイエスに感謝したのは他国人のサマリヤ人1人だけで、残りの9人のユダヤ人はいやして頂きたいと熱心にお願いしても、いやされるとその恩義をすっかり忘れ、感謝することもなかったのです。

しかし、マリアは癒してくださったイエスに感謝するだけでなく、イエスのために仕える者となったのです。つまり、彼女はイエスの恩恵に感謝と御身(自分の財を捧げて(ルカ8章2−3節)をもって応答していることから、イエスによる救いに感謝するとともに御身をもって応答する大切さが教えられるのです。

悲しみを共にした女たち

 マリアにとってイエスはこの世で一番大切なお方だったでしょう。しかし、イエスは十字架で死なれて、マリアは悲しみと深い喪失感に包まれていたはずです。

 自分にとって一番大切な人を亡くした時のダメージは計り知れません。でも、そのような辛い思いの中、イエスを葬るために墓に行ったのはマリアだけでなく、悲しみを共にする女たちも一緒だったのです。私たちもともに悲しみ、ともに喜び、ともに励まし、ともに痛みや苦しみを分かち合える人がそばにいるなら、とても心強く、また必要としているのではないでしょうか。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12章15節)

イエスが死なれて悲しみと失意のどん底にあったマリアと彼女たちは、まもなく、よみがえられたイエスにお会いして大きな喜びと希望に包まれるのです。イエスの復活こそ、私たちの心に真の喜びと永遠の希望をもたらすものであります。

復活のイエスにすがりついたマリア

さて、ペテロとヨハネは女たちの報告を聞いて墓に急いだのです。一緒に来たマリアは、イエスの葬りによる最後のお別れが出来ずに墓の前にたたずみ泣いていた時に、マリアは御使いと出会い、そして復活のイエスに最初にお会いするという光栄を得たのです。それは、きっと彼女が誰よりイエスを愛していたからでしょう。ところが、マリアは復活のイエスとは気づかずに園の管理人と思ったのです。その直後イエスは「マリア」と声をかけ、マリアは「ラボニ」すなわち「先生」と答えたのです。

死からよみがえられたイエスは、深い悲しみの中にあったマリアを慰め励まされて、マリアは嬉しさのあまりイエスにすがりつこうとしたのです。

ところが、イエスは彼女を戒められ、早く弟子たちにこの事を知らせるように命じられたのです。イエスは人間的な情愛ではなく、まことの愛(アガペの愛)をもって泣きすがるマリアをたしなめられた(よくない言動に対して穏やかに注意し、反省を促せる)のです。このイエスの行為から、神の愛は普遍(時代、場所、立場を超えて)。しかも無条件で変わることなく、えこひいきもないのです。イエスは、すべての人の罪のために死なれ、イエスを信じるすべての人が永遠のいのちにあずかるために墓からよみがえられたのです。

キリストのよみがえりは、死は絶望ではなく永遠の天国の入口であり、死後の世界は神様のご支配にあることを証明されたのです。

聖書によれば、生前どれだけ良いことをしたかによって死後の報いが決まるのではないのです。また、生前どんな悪いことをしたかによって死後のさばきが決まるのではないのです。それは死からよみがえられたイエス・キリストを信じるか否かによってその人の死後の行方(運命)が決まるのです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います.わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」

       (ヨハネ5章24節)

「モーセに語られた神とは」    ―落ち込む者を励まされる神― 出エジプト34章5−10 節 26.3/1 港

  「モーセに語られた神とは」

   ―落ち込む者を励まされる神―

出エジプト34章5−10 節

 

 聖書を字義的に解釈する立場では、アダムから今日までおよそ6000年とします。その長い歴史の中で神が直接語りかけられた人物とは、アダムとエバ、カイン、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ギデオン、サムエル、エリヤ、ヨブたちが挙げられます(顔は決して見られない)。さらに、新約聖書においては復活されたイエスが人々と直接語られ、またある人は御声を聞いたのですが、これまで神の御声(orイエスの御声)を直接聞いたという人はないのですが、私は神の御心は何でしょうかと祈る時に、神から直接声が聞ければいいなと思うこともあります。皆さんはいかがでしょうか?

 さて、けさは神と直接語り合えるという特別待遇されているモーセではなく、モーセに語られた神とはどのようなお方であるかを学びます。

神の二面性について(5―7節、10節)

 神と直接語り合えるモーセは、とても厚遇(特別扱い)されていると思うのです。でも、彼自身はどうでしょうか。実は、モーセにしてみればイスラエルの民200万(?)のリーダーというのは、とても大きなプレッシャーであります。  

 また、エジプトで神の偉大な力を見たにも関わらず、偶像崇拝(金の子牛)の大罪を犯した民に落胆し、そして失望して2枚の石板を投げ捨てて砕いたのです(32章19節)。

 ところが、神は激しく憤って落ち込むモーセに、再度シナイ山に登り十戒のアップデート、つまり更新のチャンスを与えられたのです。それは、モーセにとって実に大きな慰めと励ましとなったはずです。

新約に目を留めますと、主の弟子ペテロは、イエスを知らないと3度も否んで自分の弱さと惨めさに落ち込んでいた時に、復活のイエスは彼を赦し、ご自身の愛を持ってペテロを励まされたのです。

 また、一度きりの大切な人生を自らの身を売ってその日を生きていた姦淫の女性は、イエスの赦しとあわれみによって闇から光の人生を生きるチャンスを得たのです。これらは神の一面性(神の赦し、あわれみ、慈しみ深く、恵み豊か)であります。

 次に神の二面性とは何でしょうか。それは、シナイ山から降りて来ないモーセを待ちきれず金の子牛を造った者、またその偶像を崇めるという罪を犯した者たちを神は徹底的に裁かれたのです。つまり、神は不義を見逃せない義なる方で真実な方であるという神の二面性であります。

 この神の一面性と二面性を正しく理解することによってバランスの取れた信仰者となっていくのです。

神は祈りの声を聞かれる(8−9節)

 窮地に立っていたモーセのなすべきことは神に祈ることでした。モーセは自分の思いの丈(心の中の感情全て)と願いを神の前に曝け出して、民のためにとりなしているのです。

 モーセは神の臨在と御声にあずかるという光栄を得たので苦境を乗り越えたのでしょうか。いえ神に祈ることで苦境を乗り越えられたのです。

 では、モーセの祈りの姿勢とは神の前にへりくだった祈り。次に自分の思いの丈を真実に言い表し具体的に祈っている。そして、民の大罪にも関わらずモーセはあきらめないで祈ったのです。

@友人が真夜中にしつこく食事を求めたので、彼はついに食事を手に入れたのです。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。」このたとえは、継続的、あるいは持続的な祈りの重要性を教えています(ルカ11章5−10節)。

 

 今週の木曜日からW B Cが始まります。先週、名古屋のバンテリンドームでの強化試合に来た若いカップルがインタビユーで、大谷選手を見たい一心で来ましたと答えられたのです。たとえ遠くからでも大谷選手をひと目見たいという気持ちは大谷フアンだけではないと思うのです。その時に、私はまことの神と交われるというのは、いかに有名な人との出会いとも比べものにならないことだと今更ながら思い返したのです。

 それは、クリスチャンにとって最高のアドバンテージ(有利な立場、好都合な点、優位性)であります。

 神を信じているというのは神と交わることができ、私たちの祈りを聞いてくださり、そしてその祈りに答えてくださるというアドバンテージ(有利な立場、身分)を持っているのです。

 でも、持っているだけでなく、それを生かす(神のことばを信じ、神に祈り、神を待ち望む)なら神の大いなるみわざを体験できるのです!

 

「聖書は人生の道しるべ」 出エジプト記34章1−4節 2026 2月1日 港キリスト教会

     「聖書は人生の道しるべ」

             出エジプト記34章1−4節 

 

 月一回の学びですので、昨年の後半から学びました箇所を振り返りましょう。

20−24章 十戒と契約 モーセシナイ山で神から十戒の石の板を受け取り、民はその契約に従う約束を交わす。

 (25-31章は幕や建設についての詳細)

32章 金の子牛と背信 モーセの不在中、民が金の子牛を造り偶像礼拝に陥り神の怒りを招き、モーセは石の板を砕きます。

33−34章 悔い改めと更新 神の憐れみにより契約が更新され2枚目の石の板が与えられたことで神の憐れみの深さを知る。

 けさは34章1−4節から学びましょう。

さて、「犬に論語」or「猫に小判」 は、皆さん周知の諺ですが、「犬に論語」を直訳すると、犬に大切な論語を聞かせても理解できないということで、「我の強い人間に、善意から忠告しても聞く耳を持たない。言うだけ無駄」ということであります。

 同じように、イスラエルの民の指導者であったモーセにしてみれば、神から授かった律法はもはやイスラエルの民には、「犬に論語」であり、また「猫に小判」でした。 

 そのような状況の中、神はモーセを再度シナイ山に登りなさいと命じられたのです。そのわけとはと契約の更新のためでした。 

 つまり、もう一度2枚の石の板に神の契約を書き記すと言われたのです。

第1モーセが石の板を投げ捨てても神の教えは破棄できない(1節)

 なぜなら、人は神の教えを守れない、だから無用なものだと思っても、人がこの世界で生きて行くためには無くてはならないものです。それゆえに、神は新しい石の板に契約を更新されたのです。 

 モーセの時代に神から授与された契約は、約1500年の歳月をかけておよそ40人の人たちによって旧約聖書が完成。そして聖霊に導かれた弟子たちによって新約聖書が完成(A D約100年)したのです。

 神の御子イエスは、人が生きることにおいて聖書はとても大切であると教えられた。それは、マタイ4章4節であります。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」

 人はパン(つまり食物)を得るために働きます。それは生きるためです。しかし、人が生きるのはパン(食物)のためだけではないということに、どれだけの人が気づいておられるでしょうか?つまり、人は何のために生まれ、何のために生き、そして誰も避けることのできない死とは何かという答えをどれだけの人がお持ちでしょうか。

 実のところ、それは難解でもあり、また素朴な疑問ではないでしょうか。

私は中学生3年生の時に、生きる目的とその意義について職員室に行き、担任の教師に質問すると先生の答えは、「今は高校受験の時や、そんなことは大学に行って哲学を学んだらいいのや」という答えでした。納得のいかない答えでしたが、恐らく先生も分からなかったのでしょう。それ以後私は、「真理とは何か」を追求する人生となり、18(19)歳ごろに、その真理を唯物論思想(無神論)の中に求め、23歳で毛沢東思想の中に求めたのです。それでも、私が求めていた真理は見出せなかったのです。ところが26歳の時に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14章6節)というのイエスの言葉にその真理を見出したのです。

 ここで、けさのみことばに戻りますが、イスラエルの民のために更新された神の契約を守ることは祝福の道でしたが、それを守れず、むしろ大きな負担(重荷)となっていくのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)とイエスが言われた通りであります。 

 聖書は時として私たちの心を深く刺し通します。場合によっては無理難題を突きつけ、一体だれがこのような教えを守れるのかと反発することさえあり、聖書の教えに聞き従って生きるというは、実にしんどいという思いに包まれることさえあるのです。

 つまり、罪ある私たちには聖書が重荷となり、聖書の教えが私の人生に窮屈さ(不自由さ)を与えるかも知れません。

 いみじくも、偶像に酔いしれていた民を見て、モーセは非常に怒り、手にしていた石の板を投げ捨てたのです。

 それは、神の契約はこの民には相応しくないものだと主張しているかのような態度です。しかし、神はそのような民のためにと契約を再発行(更新)されたのです。

 神がその様にされたのは、この聖書がいかに私たち人間にとって必要不可欠であることの証しであります。

 何よりも、神の教えが人間の手で破棄できないのは神の絶対的な主権と大いなる神の愛によるものだからです。

第2 神の教えを受け取るための心備え 

 (2—4節)

 神は、モーセに新たに石の板2枚用意しなさいと命じられ、その何も書かれていない石の板に神の言葉が刻まれるのです。  

 そこで、モーセは神が命じられた通りに、朝早く(様々な禁制は神の臨在の象徴と民の不従順の戒め)神の山であるシナイ山にひとりで登り、神の契約を授かったのです。

 私たちもできるなら、静かな所で神のことばを受け取りましょう。

 日毎に歩むべき指針を聖書から求めるというルーテイン(習慣や日課)はとても大切なことです。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(詩篇143篇8節)

 神の契約が、「犬に論語」「猫に小判」(「豚に真珠(マタイ7章6節)」)であった荒野でのイスラエルの民のようにではなく、少年サムエル(イスラエル最後の士師、最初の預言者、士師から王政へのサウル王とダビデ王の油注ぎの任命:イスラエル統一国家の礎を築く)

のように、「お話しください。しもべは聞いております。」と心静かに神のみことばを待ち望む大切さをけさの学びからの教訓としましょう!