「必要は信仰の母」 ーそれをここに持って来なさいー
マタイ14章13―21節
パンとの魚の奇蹟から人が必要とする大切なものとは。
❶ 霊的な必要(13-14節)
「それを聞くと、、、、、、自分だけで寂しいところに行かれた。」(13節)冒頭の「それを聞くと」とは、ヘロデ王がバプテスマのヨハネを斬殺したことで、イエスはご自分の身の危険を察知して、父なる神と祈る時を持たれた。私たちは、奇跡をなされるイエスではなく、ひとり静かな所に退かれたイエスに注視しよう。
なぜなら、パンと魚の奇跡は群衆たちに感動を与えたが、心の渇きを満たすものではなかった。「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14章17節)
❷ 物質的な必要(15-16節)
弟子たちは、食べ物のことで気を揉んでいたが、五つパンと二匹の魚をイエスに差し出した時に5千人以上の人々が食べて満足し、余ったパン切れが12かご一杯であった。神は求める者には与え、過剰な貪欲から身を守ってくださる。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4章4節)。
❸ 信仰の必要です(17−18節)
「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」(16節)とは、イエスなら何とかしてくださるという信仰のチャレンジである。
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(ヨハネ6章9節)とアンデレが答えた。他の弟子たちも同じ思いであったはず。
物資的欠如への思い煩いは信仰の欠如。確かな信仰は、物質的な過不足によって一喜一憂しない。
「それを、ここに持って来なさい。」(18節)
今日の私たちにとって「それを」とは人生における様々な課題である。人生が順風満帆で何の問題もないなら、信仰は不要である。しかし、人生において苦難があるからこそ神を必要とするのである。まさに「必要は信仰の母」である。