「主に仕えることの再確認」 マタイ20章17−28節 要約 2024. 2/4 港キリスト教会

      「主に仕えることの再確認」

                                                      

            マタイ20章17−28節 

 

 イエス様が十字架の死の予告の前に、ヤコブヨハネの母(網元で裕福な家庭)が「私の息子たちがあなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」(21節)とイエス様に懇願。

 何もかも捨てて従って来たのだから、それに見合うものは頂きたいという動機で、イエス様に従って来たのは他の弟子たちも同様であった。

 そのような私利私欲に振り回されていた弟子たちに「仕える」ことを教えられた。

 

 第1 なぜイエス様が「仕える」ことの大切さを教えられたのか(25節)

 

 ローマ帝国の独裁者たちに抑圧されていた民衆にとって、「互いに仕える」という教えは、心を惹きつけるものがあったと思われ、そのようなクリスチャンの生き方を見て、神を恐れ、神をあがめる人たちが起こされたのである。

「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです。」(マタイ5章16節)

 

第2に「仕える」ことの原点とは何か?(28節)

 

 イエス様こそ「仕える」姿の原点であり模範である。それは、私たちの罪の赦しために十字架で尊いいのちを捨てられたことにある。

 イエス様はへりくだりと謙遜と犠牲と罪の赦しという神の愛の実践と、救われた者への模範であった。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2章6、7節)

 

参 考:[仕える]➡️デイアコニア(ギリシャ語で給仕する、食卓に仕える。奴隷が自分の意志を殺して、ひたすらに主人のために仕える無私の心。自由意志を尊重するボランテイア精神のルーツもこの言葉から由来する。

デイアコニアの意味

❶他者の幸福を願い、他者に仕える姿勢

❷デイアコニアの対象は、苦しんでいる人であり、イエス・キリストである。主イエスに仕える心で、困窮にある隣人に仕える。

❸私たちに与えられている様々な賜物、知識、技術、財、愛の精神、生命等を人々のために役立てる。

          「キリスト新聞社1997年投稿記事より」