「富める青年の選択Ⅱ」 ―富の力とその盲点―
マタイ19章16-22節
富める青年がイエスに、「金持ちが天国にはいるのはむずかしいことです。」(23節)と言われた。
なぜ、青年は天国の約束を手に入れることができなかったのか。
❶ 富が多いことによる錯覚による錯覚その1(16節)
多くの富があるという安心が神の祝福を見えなくしたのでは。
若くして富んでいた青年の富に対する間違った価値観(錯覚その1)によって、永遠のいのちを自分のものにできなかった。お金や富について正しい価値観を持つことことは非常に大切なことである。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16章26節)
❷ 富が多いことによる錯覚その2(20節)
使徒パウロは、自ら生粋のパリサイ人、何の落ち度もなく、ある面では完璧な人間であると自負していた。
しかし、ダマスコの途上にてイエスの栄光に照らされて自分のはかなさ、小ささ、惨めさ、横柄さを知った。
富める青年は、いかなる神の戒めも守っていると自負し、自分は正しい人間だから多くの富を手にしていると思っていたようである(錯覚その2)。
聖書は、「義人はひとりもいない」(ローマ3章10節)、また「人は信仰によってのみ義とされる」(ローマ書5章1節)と教えている。
❸ 富が多いことによる錯覚その3(22,27節)
青年は、富こそ人の心を満たし、人生を豊かにするものと思っていたのでは(錯覚その3)。
栄華を極めたソロモン王は、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。
富を愛する者は収益に満足しない。これも、またむなしい。」(伝道者の書5章10節)と語っているが、富める青年にとって天上の祝福は絵空事であった。
もし、青年が富を握り締めていた手を開いてイエスを信じるなら、永遠のいのちを手にしたのである。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」
(マタイ13章44節)