「罪人を救う神の愛」
マタイ18章11-14節
イエスによる「迷える羊」のたとえ話にある真意とは何か。
❶ 1つ目の真意とは、神様は一人を大切にされる(10節、11節)
イエスが、弟子たちに迷える羊のたとえを話されるきっかけになったのは、「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」(マタイ18章1節)との質問からと思われる。それは、弟子たちの関心が己の評価にあったからでは。
ところが、このたとえ話でイエスは、一匹の羊をあきらめずに見つかるまで探すほどに、一人ひとりが大切であることを教えられている。つまり、人の価値は他者の評価によるのではなく、神はいかなる人をも大切にされるということを知らないと、自分は価値ある存在であることを認識することができない。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」 (イザヤ書43章4節)
❷ 2つ目の真意とは、神様は忍耐深いお方である(12節)
羊は常に監視していないと迷い出て、自分勝手な道を行くので羊の群れを飼うのは実に忍耐のいる骨おる仕事である。
ですから、羊飼いは忍耐強い人でないと勤まらない。 「主は私の羊飼い」と証ししたダビデは、大きな罪を犯し嘆き悲しむ時も、忍耐深い神の前に悔い改めている。
今も変わらず、父なる神は御子イエスの贖いを通して一人でも多く人が悔い改めて救われることを忍耐して待っておられる。
見つかるまでという羊飼いの心に、一人でも滅びることを望まないという神の忍耐を見る。
❸ 3つ目の真意とは、神様は犠牲を惜しまれない(13節、14節)
「迷わなかった99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(13節) 迷える羊を見つけるためにはいかなる犠牲をも惜しまないという羊飼いの深い愛が見える。イエス・キリストは神の御座から降りて人となり、私たちの罪の身代わりのためにご自身のいのちを十字架で捨てられた。この尊い犠牲の裏には、自己犠牲による無私の愛がある。
その愛を具現化されたみことばが、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネ3章16節)である。