「人をさばいてはいけない理由」 マタイ7章1―5節
聖書の「さばく」には2つの意味がある。
否定的な意味では見下げる、批判する、断罪する、中傷する等、肯定的な意味では分析する、区別する、評価する等がある。
L・Bでは1節を「人のあら捜しはいけません」と訳している。この箇所での「さばいてはいけません」とは、間違った判断(基準)で人を非難する(さばく)ことである。
では、人をさばいてはいけない3つの理由とは。
❶第1の理由➡️人にさばかれないため
(神様からの忠告、1―2節)
私たちは100%間違いなくさばきを下すことは不可能である。パウロは「すべて他人をさばく者よ。あなたに弁解の余地はありません。
あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行なっているからです。」(ローマ書2章1、2節)と語っている。
「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(3節) と自分の目に梁という大きな障害物で視界がさえぎられているのに、人の目の中にある小さなちりを見つけられるはずがない。反対に同じ秤で量り返されるのである。
❷第2の理由➡️私たちには人をさばく資格がない
(罪人のゆえに、3―4節)
人のあら捜しや人を非難することは、神が喜ばれない的外れな行為である。
ここで、主は正しく自己批判と自己認識(罪人)の出来ない者が、正しく人をさばくことは不可能であると教えられた。
❸第3の理由➡️私たちはあくまでも利己的である
(正しいさばきができない、5節)
兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください。」という行為は真実ではない。
というのは、その人のことを真心から良くしてあげたい、助けてあげたいという心からではなく、心の底ではその人の短所や欠点を知って優越感を抱いて喜ぶのである。主はそのような者に対して「まず自分の目から梁を取り除きなさい。」と戒められた。
自分の目にある梁に気づかないで、人を助けることはできない。