「信仰者の行いによる報いとは」ローマ書2章1−11節 2020 9/6 港キリスト教会

 前回の1章19節から32節の彼らとは異邦人(異教徒)を指し、今回の2章1節から2章27節のあなたとはユダヤ人を指す。そのユダヤ人たちは、選民という自負心と神の救いの中にいるという安心感だけでなく、聖書をかざして異邦人(人々)をさばいていた。そのような彼らが、神のさばきを免れることは決してない。つまり、今回の聖書箇所である2章1〜11節は聖書を語りながら行いの伴わないユダヤ人に対しての警告である。

 罪からの救いは信仰によるが、その信仰は行いによって全うされる(ヤコブ2章22節)。しかし、行うことにおいては弱さを持つ私たちである。だからこそ、「神の豊かないつくしみと忍耐を寛容」(4節)という神の赦しと愛を必要としている。ところが、神に選ばれた特別な民であるというユダヤ人たちの特権意識は、神の愛とあわれみ「神の豊かないつくしみ、忍耐、寛容」を軽んじた(不必要とした)結果、信仰によって救われる道を閉ざしてしまう。しかし、パウロは、罪からの救いは信仰によって、そして信仰による行いによって神の報いを受けると論じた(6節)。では、その行いが信仰によって全うされるところの「行い」とは何か。それは、忍耐をもって善を行なうことである(7節)。そして、この善とは単数で(個々の善ではなく)、ある一つの生き方、神の栄光と真理を求めて生きることを指し、そのように善を求めて生きる者の上には栄光と誉れと平和が与えられる(10節)。その根拠は神にはえこひいきがないからである(11節)。

 神の愛といつくしみの助けによって導かれた信仰告白によって救われることは実に幸いである。と同時に、パウロは救われたのには理由(使命)があることを忘れないようにとの勧めが、けさの主題ではないだろうか。それは、信仰者の行いが、神に喜ばれ、神から報いを受けるものであり、そして神に栄光を帰するものであるようにとのパウロの切なる願いが込められている