「主のしもべとしての心得」   ローマ書1章1節  2020.7/26 港キリスト教会

 「主のしもべとしての心得」ローマ書1章1節

  ローマ人への手紙の執筆場所はコリント、執筆年代はA D57、58年頃、執筆目的は多種の思想と宗教に満ちあふれているローマにて福音とは何かを知らせ、ローマにいるクリスチャンたちの信仰の成長を助けることが目的と思われる。今回は1節から学ぼう。

 Ⅰ パウロは、キリスト・イエスのしもべであると紹介する。キリスト・イエスのしもべとは、主(イエス)のために何でもします。主の所有物で、主が言われたことに聞き従うという意味である。つまり、主とパウロとは「主人と奴隷」という主従関係にある。私たちと神様との関係においても、神の子どもであると同時に神のしもべ(ドーウールスギ=奴隷)である。つまり、私たちもパウロと同様に、「主人と奴隷」という主従関係にある。しかも、主が、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」(マタイ20章26、27節)と教えられたように、兄弟姉妹も主のしもべであると同時に、互いにしもべであり、互いに仕える者である。

 Ⅱ.次にパウロは、福音によって召された使徒(アポストロス:原義は派遣された者)であると紹介している。パウロは、優れたエリート(ギリシャ語も堪能)で、当時のローマにて最高の職業と高貴な身分と豊かな財を手に入れることも可能であったが、それらをかなぐり捨て、神様からのコーリング(召命)を受けて、福音宣教のために使徒という職業についた。神様に召されるというのは、決して牧師や伝道者や宣教師だけではない。すべてのクリスチャンは主の救いに預かったという召しを受けている。その召しに応答するために、私と神様とは主従関係(主人と奴隷)にあるという自覚が大切である。

 主のためには何でもします。そして、私は主の所有物であり、主が言われたことは何でも聞き従いますという、究極の献身の思いに満ちたパウロの自己紹介は、すべてのクリスチャンが模範としたいものであるが、それは、実に信仰のチャレンジに満ちあふれた自己紹介ではあるが、このパウロの自己紹介は、神の御子であるイエスのしもべの姿に学ぶものであったに違いない。

「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2章7、8節)