「試練や苦難は必要悪?」要約 第2コリント6章1—10節 2022.3/27 港キリスト教会

「試練や苦難は必要悪?」  

 第2コリント6章1—10節

  だれしも幸せで、苦難のない平穏な人生を願うものであるが、使徒パウロはどのような人生を送ったのか。

 彼は優秀なパリサイ人で、ローマ市民権を所有(資産、教養、しかも高い社会的地位を持っているごく限られた人)

 もし、パウロが優秀なパリサイ人のままなら裕福で安泰な人生を送れたはずである。

 ところが、イエスに出会って人生が一転。それは、苦難に満ち、災いの絶えない人生への一転であった。しかし、パウロは苦難が伴う人生を信仰によって受け止め、やがて神から頂く天の栄光と比べるなら、それらは取るに足りないものと考えていた(ローマ8章18節)。

 そのパウロが、「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(1節)とコリント教会のクリスチャンたちに懇願した。

 それは、神の救いにあずかるというのは実にすばらしいことである。しかし、神の救いを人々に知らせないなら、神の恵みを無駄にしているのであると忠告。

 そして、神の救いを伝える務めがそしられないために、人につまずきを与えることのないように自らを戒めるようにと勧める(2、3節)。

 さらに、パウロ使徒職としてふさわしくないという教会内の一部の反対勢力者に、これまでの伝道における現状を証しつつ、自分はイエス・キリストのために召された真の使徒であると弁明する(4—10節)。

 パウロの妥協しない信仰の姿勢は、ノンクリスチャンのみならず、時にはクリスチャンにおいても敬遠されていたのかも知れない。

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ3章12節)

 信仰、信仰とあまり固いことは言わないでくれと揶揄(からかわれる)され、聖書に忠実に生きようとすると周りの人たちから煙たがられる。当たり障りなく、周りの人とうまく合わせて(迎合)生きて行く、避けられる試練は避け、無風で順風満帆な信仰生活のみを求めるなら、ごく小さな試練にも耐えられないかも知れない。

 神様を信じていても、クリスチャンは試練に会い、苦難を経験し、辛いことや悲しいことがある。

 では、なぜパウロが多くの試練を乗り越えることが出来たのか。4節で「あらゆることにおいて」と付記されているように、自分の身に信じられないこと(あらゆることにおいて)が起こったとしても、恥じることなく自分を神のしもべであると言うことができ、そしてパウロはいかなる試練の中でも、忍耐し、希望を持ち続け、神の栄光を待ち続けることができたのはなぜか。それは、生ける神の御子イエスとの確かな出会いである。

 私たちもイエスと日々交わり、語り合う(みことばと祈り)中で、イエスがより身近なお方となるなら、自分の身に起こった試練について驚き怪しむことなく、耐え忍び、その試練を神のご計画によると受け止めるなら、その人は将来において神からの栄光を受けるのである。

「私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重

 みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

(第2コリント4章17節 新共同訳) 

「試練や苦難は必要不可欠である」