「見えないものに目を留めるなら」要約 第2コリント4章16−18節 2022.2/20 港キリスト教会 

 「見えないものに目を留めるなら」  

    第2コリント4章16−18節 

  迫害による困難な時代の中でパウロが、「私たちは落胆しません。」と言えた第1の根拠(16節)は、たとえ迫害によって命を失っても、キリストと同じように復活し、神の御国に行けるという復活信仰にある。

 復活信仰は打ち拉(ひし)がれた心に勇気を与え、御国への希望を抱かせる。たとえ、迫害による肉体的、精神的なダメージがあってもパウロは、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と告白している。

 次に、パウロにとって迫害は一時的なもので、軽い苦難であると言える第2の根拠(17節)は、御国にて神の栄光を受けることを待ち望んでいたことである。

 パウロは、苦難が大きれば大きいほど、天で受ける栄光はより大きいと考えていたのではないか。

 信仰による試練は、神様に見捨てられたのではなく、神様をどれだけ信じているかのテストであり、神様の愛がどれだけ大きいものであるかを体験するチャンスでもある。

 パウロが見えないものに目を留めて生きた第3の根拠(18節)とは、まことの神様を知っていたからである。目に見える一時的なものが、必ずしも悪いものではない。

 しかし、目に見えるものからは永遠についての答えはない。しかし、神の存在を知った時に永遠についての答えがある。

 私たちは、目に見える一時的なものに心を奪われ過ぎて、聖書の教えを軽んじ、神はおられないのではと疑うことのないように注視しよう。

「信仰は、望んでいることを保証し(実体)、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11章1節)