「信仰と迫害」マタイ5章10-12節 要約 2022年8月7日 港キリスト教会

      「信仰と迫害」 マタイ510-12

 この箇所から迫害について3つのことを考えてみた。

第1 義のために生きる者が、なぜ迫害されるのか

 なぜ、信仰による義の生き方が迫害されるのか。その実例がイエスの生涯にある。宗教家たちは、イエスは義なる方で、偽りがなく、何の罪も犯されなかったにもかかわらず極悪人と共に十字架で処刑にした。

それは、イエスによって彼らの偽善が暴露され、さらにイエスの人気が彼らの妬みと憎しみを増大させたからである。

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」(第二テモテ3章12節)

 

第2 神は迫害されている者をなぜ守り助けられないのか

天の父が御子イエスを世界に遣わされた目的は、永遠の死をもたらす罪からの救いのためであり、イエスの十字架の贖いのみわざ(罪からの救い)により、一人でも多くの人が救われることを御心とされた。

神は迫害者を見捨てられたのではない。迫害者の死は、天において大いなる報いと賞賛が約束されている。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する人たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1章12節)。

殉教死を選択したパウロは、「死ぬことは益です。」(ピリピ1章21節)と朽ちる命よりも、永遠のいのちによる神の御国に希望を抱いていた。

 

第3 クリスチャンは、なぜ迫害に甘んじ耐え忍ぶのか

 それは、迫害の中にあっても、耐え忍ぶ者を強め守られるというみことばへの信頼と愛の実践にあるのではないだろうか。

「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5章44)

迫害の中での神の愛の実践は、迫害の不条理さと人間の罪深さを気付かせ、神の存在を知らしめるものである。

テルトウリアヌスは「殉教者の血は、教会の種」と言った。神は多く人が救われるために迫害をも許容されたのではないだろうか。

信仰深い生き方は、誤解、無理解、非難、嘲り、ののしり、孤独を経験する。しかし、そのような者を励ますためのみことばが数多くある。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」(第二コリント4章9節)