「信じる者はだれでも救われる(Ⅰ)」ローマ書10章1ー7節   2021.1.31 港キリスト教会

「信じる者はだれでも救われる(Ⅰ)」

ローマ書10章1ー7節 2021.1.31 港
 私にイエス・キリストの救いを伝えてくれた方の洗礼式に行った時のことです。その教会の牧師が私の顔を見るなり「兄弟。救われていますか」と聞かれたのです。 
 その当時、私は(24歳)宗教には無関心で、しかも反発心もあって「救われていますか」という牧師の言葉は、キリスト教も何か怪しげな宗教かという思いだけが残りました。
 さて、この「救われていますか」というキリスト教の救いを正しく理解するためには、①神の義②信仰による義③律法という教理の学びが大切です。
 ということで、けさはそれらの教理について10章1節から7節まで学びましょう。
 パウロは、たとえ宗教(ユダヤ教)に熱心だとしても、信仰の熱心さが救いを保証するものではないことを言及し、さらに救われるためにどうすれば良いのかを論じているのが1−7節であります。
 まず1節。パウロもかつてはユダヤ教の教師で、誰よりも熱心であると自負し、また博学でエリートでした。
 ところが、ある日に復活のキリストに出会い、真の救いを体験したのです。
 そこで、パウロは救いに至らない同胞たちの信仰の間違いを上目線で指摘するのではなく、彼らがまことの救いを得るようにと神に祈願しているのが1節であります。
 次に2節は、パウロユダヤ人たちの信仰の熱心さを認めつつも、間違ったものに熱心であったので「その熱心は知識に基づくものではありません。」と彼らの間違いを示したのです。
 リビングバイブルでは「見当違いの熱心なのです。」と訳しています。つまり、正しい認識や知識を土台とした熱心さではなかったのです。
 この知識とは一般的な物事についてのもろもろの知識ではなく、神様の御心を正しく知る、或いは神についての深い知識や理解力であります。
 さらに、3節から7節では、彼らの間違いの根拠について語っているのです。
 まず、彼らの信仰が救いに至らない第一の根拠とは、どんなに信仰に熱心であっても、彼らの信仰は神の義から遠く離れているからです。
 では、①神の義とは何でしょうか、端的に言うなら神の完全さです。つまり、きよさにおいて、正しさにおいて、ことばや行動において、それらすべてにおいて完全であるということなのです。
 そのような義を手に入れるために、彼らのしたことは、神の律法を守り行なうことでした。
 では、②律法とは何でしょうか。それは、神の義を手に入れるために完全に守らなければならない決まり(法則)ごとであります。
 例えば、モーセ十戒はその代表的なもので、当時のユダヤ人たちは、神の律法(十戒も含め)を完全に守り行って神の義を手に入れようとしていたのです(もちろん、誰一人守れなかったのです)。
 しかし、後世においてユダヤ人たちは、神の律法に自分たちの決まりごと(タルムード)を付け加えて、それらを日々の生活に取り入れたのです。
 そして、律法よりも人間が決めた細則(タルムード)を順守することによって神の義を得ようとしたのです。
 今日のユダヤ教も、細則を几帳面に守ることによって神の義を求めているのです。
 たとえば、安息日(金~土曜日)に歩くことが出来る距離を正確に決め、2つの干し無花果(イチヂク)より重い物を安息日に担いではならない、料理をしてはいけない、火を起こしてはいけない、電灯のスイッチをつけてはいけない(エレベーターのスイッチも)といった無数の決まりごとがあるのです。
 パウロは、これらのことに関して3節で「彼らは自分自身の義を立てようとして」と表現しています。つまり、自分たちの行ないによって、神の恩恵を受けようとしていたのです。
「神様。私は、このようにちゃんとしていますから、私を(義と)認めてください。」ということであります。
 それは、行いによって神の功徳を求める態度と同じです。しかし、それらの行為は、決して神の義を得るものではないとパウロは論じたのです。
 神の義を得るためには、自ら屈服して、自分自身を神の前に投げ出さ(差し出す)なければならないのです。
 それらの意味することを具体化するなら「私たち人間は、律法を守ろうとすれば、罪を深く自覚させられ、罪ある自分をそのまま神の前に投げ出すなら、神のあわれみを経験する。」ということなのです。
 では、なぜ罪ある者が神の前にそのまま差し出すことによって神のあわれみを受けることが出来るのでしょうか。
 そのことを説明しているのが4節です。つまり③信仰(キリストへの)による義です。
「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(第二コリント5章21節)
 神の御子キリストは、人となってこの世界に来られ、罪を犯すことなく律法を全うされ、完全な生涯を送られたのです。
 その主が私たちの罪の身代わりとなられて十字架に付けられたのです。
 そして、主が十字架上で語られた「すべてが完了した。」とは、キリストご自身が、私たちの代わりに律法ののろいを受けてくださり、しかもキリストを信じる者は、すべてののろいから全く解放されることを意味しているのです。
 律法ののろいとは、律法は良いものですが、私たちはそれを守れないために、神による永遠のさばきを受 けなければならないのです。しかしキリストを信じることによって、神による永遠のさばきから逃れるのです。
「まことに、まことに、あなた方に言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされたかたを信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく。死からいのちに移っています。」  
ヨハネ5章24節)
 冒頭で牧師の「兄弟。救われていますか」という言葉がどれほど重い言葉であるか、無神論者の私がイエス様の救いにあずかることによって理解できたのです。
 後日談ですが、実はその牧師が、ある時に私の職場のクリスチャンの先輩に「彼は救われ難い」と言っておられたことを耳にしたのです。まさに、牧師に見放された(ではないと思いますが)、その私が救われたのです。
 まさに(主を)信じる者は誰でも救われるのです!