「信じる者はだれでも救われる(Ⅱ)」 ローマ書10章8―13節 2021 2/7 港 キリスト教会

「信じる者はだれでも救われる(Ⅱ)」

ローマ書10章8―13節 2021 2/7 港 
 けさは、先週に続き「信じる者はだれでも救われる」のパートⅡです。 
 世界にある宗教の多くが自力救済的です。それは唱える(拝む)という熱心な行為によってご利益を求め、また修行(難行苦行)によって救いを得ようとし、あるいは、善行を積むことによって救われると考えるからです。
 このような自力救済的な宗教が多いのは、性善説の立場を取っているからかも分かりませんね。
 つまり、人は救いがたい罪人であるという認識不足が、八百万の神々、また多くの宗教が生まれる要因の一つではないでしょうか。
 たとえば、飲んだら乗るなという単純な法律が守れずに、尊い命を一瞬に奪ってしまうのです。飲酒による悲惨な事故のニュースを何回見ても、そして、どれだけ刑罰を重くしたとしても飲酒運転は無くなることはないのです。
 このように、刑罰をいかに重くしても、この世界から犯罪は無くならないように、私たち罪人が、罪を犯さないで生きることは不可能なのです。
 というのも、聖書はすべての人は罪を犯したと宣言しているのです。と同時に救いの道も示されているのです。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(しかし)神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」(ローマ書3章23、24節)
 さて、9節、10節のみことばもまた、救われるためにどうすれば良いかを具体的に書かれています。 
 それは、イエスは人となられた唯一の神の御子であり、人を罪から救う唯一の救い(贖い)主であり、そして唯一のさばき主であるということを口で告白し、心の中でイエスが死からよみがえられた と信じるなら救われるのです。
 そして、自らの人生を主にゆだね、またすべてを明け渡して生きるようにと救われた者に勧めています。とはいえ、そのように生きることは決して容易なことではないのです。

 というのは、私たちには、欲望を満たしたい思いがあり、自由気ままに生きたいという思いがあり、神様に従うことを妨げる自己本位性があります。
 信仰を持っていても、そのような心の葛藤が起こることで、自分は本当に救われているのかと疑心暗鬼に陥ることもあるのです。
 しかし、そのような心の葛藤と救いの事実とは区別する様にしましょう。なぜなら、神様に救われている事実は、イエスを主(唯一の神の子・救い主・さばき主)と告白することにあるからです。
 さらに12節では、人種、国籍、身分、地位、学歴、職業の区別なく、だれであっても同じ主がすべての主であり、主を呼び求める(祈る)すべての人に対して恵み深いからですと約束されているのです。 
(証 し)
 韓国のイ・チソンさんが、当時大学4年生の時に、飲酒運転の車に追突され車が大破するという事故に巻き込まれました(=2000年7月30日)。 
 彼女は事故による大やけど(全身の55%が黒焦げに)によって、女優の様な綺麗な容姿のすべてを失い(両手の親指以外の指8本は切断)、醜い容姿となりました。辛さと悲しみのどん底の中で、お兄さんに、「私を殺して!」とまで言ったのです。
 しかし、この様な大きな試練を通して、クリスチャンであった彼女の心は、以前とは比べものにならないほど神様の愛で満たされていると証しできるほどになられたのです。参考「チソン、愛しているよ」の著書より
 さて、本当の幸せ(心の平安)とは、自分にとって良い条件や良い環境が備えられないと、手に入れることができないのでしょうか。
 いえ、恵み深い神様を心に迎えたときに、誰でも手に入れることができるのです。
 また人が、不確定で厳しい世の中を生き抜いて行くために必要な力とは何でしょうか。それは神の力です。「神は一度告げられた。二度私は聞いた。力は神のものであることを。」(詩篇62篇11節)
 その力は、神様を信じて救われた結果、手に入れることが出来るのです。
 イ・チソンさんは、信仰の試練の中で、いかなる時であっても、神様の変わらない愛によって力強く生きるようになり、そして、神様が約束されたことは、必ず守ってくださることを身をもって体験されたのです。「同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める(あるいは祈り求める)者は、だれでも救われるのです。』」(12節、13節)