「信仰に立ち返るために」要約 ヤコブ5章19-20節 2021年10月17日(日)港キリスト教会

「信仰に立ち返るために」 ヤコブ5章19-20節

 ヤコブは、この手紙を書き終えるに当たり大切な問題に触れている。それは、信仰から離れた信徒が信仰を回復して教会に戻るなら、神の恵みに共にあずかる者となる。

 

第1に、信仰の回復によって永遠のいのちの約束が確かなものとなる。

「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない。」(ヘブル13章5節)

 これは、一度救われた人は決して滅びないという約束である。ところが、ヘブル6章4-6節や第二ペテロ2章20節では、一度救われた者であっても信仰から離れ、生活態度が以前よりも悪くなるなら、神のさばきを逃れられない。つまり一度神を信じた人は、何があっても救いからもれることはないという約束と、反対に信仰から離れてしまって堕落するなら、たとえ救われた者であっても救いからもれるという2つの約束がある。

 この異なる2つのみことばは、救われた者は決して見捨てられないという励ましと、もう一つは、救われたのだから何をしても構わないといった安易な生き方のへの戒めとなる。

 結論とし、信仰から離れても、再び回復するなら神は喜んで受入れてくださり、反対に、信仰が回復ぜず、自ら神のあわれみを拒むなら、自ら滅びを選びとることになる。

第2に、信仰の回復によって重ねてきた全ての罪が赦される

 ダビデ王は、人妻を不当な方法にて自分の妻にするという姦淫の罪を犯した。詩篇51篇2、3節はダビデの苦悩の叫びである。

「私の咎を、私からすっかり洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきを知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。」

 その後、預言者ナタンに罪を糾弾され、ダビデ王は罪を悔い改めた後の心境を語っている。

「幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。」(詩篇32編1、2節) 

 罪は神の前に隠すことはできない。もし私たちが自分の罪を隠すなら、神はいつしかその罪を白日のもとに明らかにされる。しかし、罪を悔い改めて、神のもとに帰るならその罪は覆われる(赦される)。その理由は、キリストの十字架の赦しと愛と憐れみによる。

 さて、信仰(真理)から離れた人のために祈るだけでなく、その人を連れ戻すという行為は、罪のさばきから免れ、永遠の滅びから永遠のいのちにあずかるという神様の愛のみわざにともに参与することでもある。

 そして、当然のことですが、信仰(真理)から離れている(迷い出ている)人を取り戻すことが出来るのは私たちクリスチャンの他に誰もいない。