「しもべとなられた神の子イエス」
マタイ12章15−21節
人となられた神の御子イエスは、人々に仕えるしもべとしてこの世界に来られた。では、どのようなしもべとして来られたのか。
❶神のしもべとして(18節) 18−21節は、ペルシャ時代のキュロス王が、バビロン帝国を打ち倒して強大な国家の支配者となることを預言され(イザヤ書42章1−4節)、イエス・キリストは、全世界の支配者ではなく、全人類の救いのために、また人々に仕えるしもべとしてこの世界に来られた。
❷平和のしもべとして(19節)
バビロンは無抵抗でその門を開いた(碑文より、参照:ダニエル書5章)、キュロス王は流血を見ることなくペルシャ王国を打ち建てた「彼は争うこともなく、叫ぶこともなく、大路でその声を聞く者もいない。」(19節)。イエスは宗教指導者たちと言い争うことなく、権威者たちを糾弾されなかった(15節)。真の平和とは、個々や国々の争いがなくなることではなく、イエスを信じて心に平和(平安)を持つことにある(引用:エペソ2章12−18節)。
❸愛のしもべとして(20節)
イスラエル人は、キュロス王の許可によって傷んだ(傷んだ葦を折ることもなく)国と、滅びかけている(くすぶる燈心を消すことなく)国の再建のために故郷に帰還。イエスは、病む人を癒し、弱き人を慰めるために愛のしもべとしてこの世に来られた。
しかし、神のしもべ、平和のしもべ、愛のしもべとして来られたイエスを憎しみ、妬み、失望し、十字架で処刑という悪行をも用いられ、イエスの復活と信仰によって救われるという恵みの時代が訪れた。やがて恵みの時代は終わり、イエスは主に救われた者(全てのクリスチャン)とともに、王の王、主の主としてこの世界をさばくために来られる。
「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた
人たち。」(ローマ書4章7節)