『律法の精神を学ぶ(Ⅱ)』―信仰による救いー
マタイ5章27―30節
「姦淫するな」は「殺すな」と同様に、行為だけでなく思いも戒めている。
では、その戒めの根本精神とは何か。それを知るために、律法の必要性について見よう。
それは、神の前に正しく生きるためのルールブックであり、それを守ることにより、お互いの生命と生活を守り、平和に暮らすためである。
ところが、たとえ姦淫を犯していないとしても、情欲を抱いて異性を見るなら姦淫の罪を犯しているとイエスは教えられた。
つまり、律法の教えが重要だけでなく、その教えの裏にある精神が大切である。その大切な精神を知らずに、口先だけで行いのない宗教家たちだけでなく、律法の違反者のすべては、律法授与者である神の裁きを受けなければならない。
なぜなら、神の前に的外れな生き方(罪)をしているからである。
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ書3章20節)
では、イエスが「姦淫してはならない」と教えられた真意とは何か。それは、心の中で罪を犯した者を断罪するためではなく、律法も守ることは不可能だけでなく、律法を守ることによって神の義を得る道は全く閉ざされていることを教えるためではないだろうか。
あなたの右の目、右の手が罪を犯させるなら、その目をえぐり出し、足を切ってしまいなさいと言われたのは、恐ろしい地獄(ゲヘナ)に行って欲しくないという思い(アガペーの愛)からではないだろうか(29節、30節)。
では、私たちが義とされる道はあるのか。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ書3章21―24節)
律法は私たちを断罪するためではなく、私たちをキリストご自身の救いに導くためのものである。
「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3章24節)