「神様を信じなければならない3つの理由」―神は私たちの味方です― ローマ書8章31−34節 2021年1月24日 港キリスト教会

「神様を信じなければならない3つの理由」 ―神は私たちの味方です― 

ローマ書8章31−34節 2021年1月24日 

 パウロが、ローマにいるクリスチャンに手紙を書いた当時、キリスト者ローマ帝国の迫害の的となっていた。そのような中で31節から39節のみことばは、当時のクリスチャンには大きな励ましであったはずです。
 さて、この学びを通して信仰の確信がより与えられますように。
 まず31節のこれらのこととは、神が私たちを選び、救い、義としてくださり、神の栄光にあずかる者とされたことです(29、30節)。
 パウロは、そのような神様が味方であるなら、だれが私たちに敵対できるのかと語っているのです。  
@第2次世界大戦の直前、アメリカやイギリス、フランスといった列強国が集まった国際会議の席で、ある国の代表者が私たちは神を恐れるべきであるとの発言に、日本の代表者は、我々は神をも恐れないと発言したのです。そのような中で日本はますます国際社会から孤立し、神をも敵に回した日本は、もはや戦争に勝つことはなかったのです。神をも恐れない心は実に恐ろしいものです。 
 まず、神様を信じなければならない第1の理由は私たちの存在意義と目的は神にかかっているからです。
 なぜなら、私たちの存在は神の創造によるものです。ですから、創造者である神を私たちの敵に回しては大変です。
 しかし、神様が味方であるという人生には敗北はないのです。それは、37節(圧倒的な勝利者になる!)のみことばで証明されているのです。
 次の32節は、神様は心から信頼できる味方であることを保証〈裏付け〉するみことばであります。
 それは、私たちの罪の赦しのために、ひとり子であるキリストさえも惜しむことなく十字架に死に渡された父なる神様は、何の分け隔てもなく私たちを愛し、豊かな恵みを施してくださった方であります。
 この父なる神様がどれほどの思いで御子を十字架に渡されたかは、「渡された」という本来の意味の「見放す」という言葉から類推できるのです。
 そして、主イエスが十字架に付けられた時に、「父よ。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶句されたのです。
 実は、この所から二つの見方ができるのです。一つは父なる神様はキリストを見捨てられたゆえに、冷酷非道な神であるという見方。もう一つは、私たちの罪こそがキリストを十字架による残酷な死に追いやってしまったという見方です。
@私がクリスチャンになって間もない頃、近所の銭湯で知り合いの方たちに神様のことを話しました。その中にご年輩の方が熱心に私の話を聞いてくださったのです。ところが、その人が神様を信じるのに大きな躓きとなっていたのが、「父よ。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの言葉にあったのです。その人にとって神様とは愛のお方ではなく、冷酷で無慈悲なお方だったのかも知れません。 
 しかし、私たちの罪のためにひとり子であるキリストを惜しまずに死に渡された方が冷酷で無慈悲なお方であるはずがないのです。
 しかも、私たちからお願いしたわけではなく、神様が私たちを一方的に愛してくださり、独り子であるキリストを私たちの罪のための生贄とされたのです。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)
 33節は、人によって私たちが義とされるのではなく、神ご自身が私たちを義と宣言してくださったのです。人はうわべを見るのですが、神様は私たちの心のすべてをご存知の上で私たちを義と認めて下さったのです。神による義認なくして救われる人は誰一人いません。
 神を信じなければならない第2の理由とは、罪ある私たちは愛なる神様の救いを必要としているからです。
 最後に34節です。人は人の義を認めようとするよりも、人のあら捜し、人の弱点や失敗、人の悪い所を探し、また見つけようとしやすいものです。たとえば、会社において自分が出世するためには、同僚や後輩が成功するよりも、失敗する方が自分にとっては都合が良いと思うのではないでしょうか。
 あるいは、聖職者が良いことをしたというニュースよりも、悪いことをしたことの方がニュースになるのです。人は成功話よりも失敗談に共感します。
 同じように、クリスチャンに対する風当たりも強く、「クリスチャンのくせにそんな事をするのか」と咎められることもあります。そのようなことになると、心が萎縮し、自由を失い(束縛され)、律法的で自分でも嫌なクリスチャンになりかねないのです。
 しかし、神の右の座に着かれたキリストが私たちのためにとりなしてくださっているのです。
 「とりなす」とは、キリストが裁判官や検察官としてではなく、弁護人の立場を取ってくださることを意味するのです。しかも、神の右の座に着かれているというのは、主権者としての権威をお持ちの最高の弁護人なのです。
 神を信じなければならない3つ目の理由とは、主イエスこそさばき主としてふさわしいお方であり、信じる者にとって心強く、頼もしく、最強の弁護人だからです。
 父なる神は私たちの罪のために、子なるキリストを見捨てられましたが、父なる神の御力によって、キリストは死からよみがえり、父なる神の右の座に着かれ、私たちのために日々とりなしてくださっているのです。このようなお方ゆえに、この世にあって私たちは圧倒的な勝利者になることができるのです!