『神様の取り扱いによって』  −良心の呵責からの解放− 創世記43章1-15節 2020.5/31港

『神様の取り扱いによって』
   −良心の呵責からの解放−
創世記43章1-15節 2020.5/31港
 けさの聖書箇所の背景ですが、ヤコブの家族がエジプトから買って来た食糧で何とか食いつないでいたのですが、飢饉はさらにひどくなり、食糧を食べ尽くしていたのです。そこで、父ヤコブは兄たちに、再びエジプトに下り、食糧を買って来るように言いつけたのです。
 しかし、ユダは弟のベニヤミンを連れて行かない限り、食糧を買うことが出来ない事情を父に話したのです。 
 そして、家族が生き延びるためには、ヤコブは最愛のベニヤミンを手放さなければならないという苦境に立たされたのです。
 ヤコブはこの苦境から逃れることは出来ないのです。事を前に進めるためには、どうしても、この厳しい現状を受け入れなければならないのです。
 しかし、ベニヤミンを手放すことに躊躇していた父ヤコブに対して、ユダはすべての責任を自分が引き受けると父に話したのです。つまり家族の救いのために自分が犠牲になると申し出たのです。
 そもそも兄たちには、今家族の上に降りかかっている災いは、かつて自分たちが蒔いた種の刈り取りをしているのではないかという自責の念があったのです。
 なかでも、エジプトにヨセフを売ることを提案した張本人がユダであっただけに、自らその責任を取ろうとしたのでしょうか。悪いことをして心に責めを負う、罪を犯すと罪悪感を持ち、また良心の呵責を感じるというのは人間として当然なことなのです。
 幸いなことに、兄たちは一連の出来事(神様の取り扱い)を通して過去の罪の大きさに気付き、今まさに、反省に勝る悔い改めの実が結ばれようとしているのです。 
 さて、兄のユダは、20年以上も前に犯した罪のために苦しみ悩み続けていたのですが、その罪の償いのために自分自身を犠牲にしたのです。
 兄ユダの犠牲的精神は、父ヤコブの心を動かし、彼らの袋にあった銀貨を倍にして返し、この地の名産を持って、再びエジプトに下って行くように兄たちに告げたのです。
 その時、父ヤコブは全能の神がその方に、あなたがたを憐れませてくださるように。そして監禁されている兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだと。それは、あきらめとか、開き直ったというのではなく、神への祈りと、その祈り心を持って兄たちを見送ったのです。
 さて、ヨセフは父ヤコブと再会するための計画が、兄たちにとっては悔い改めの機会となり、それは、やがて兄たちの良心の呵責からの解放の機会となるのです。
 また父ヤコブにとっては、全能の神様に信頼し、固く信仰に立つチャンスとなったのです。もちろん、これらの出来事の背後には神様の御手があったのです。
 生意気なヨセフをエジプトの奴隷として売り飛ばすという悪事を働いた兄たちは、その良心の呵責を20年以上も持ち続けていたのです。もし、そのままにしていたなら、兄たちは後悔の人生で終わったことでしょう。
 しかし、神様は、飢饉という苦難を用いられ、兄たちは悔い改めと弟のヨセフを介しての神様の赦しを体験した結果、20年来の良心の呵責から解放されたのです。
 私たち人間は、心の深いところにある罪に目を閉じてはいけないのです。そして、罪のなすままに身を委ねてはいけないのです。罪を犯せば必ず刈り取りがあり、その報いは必ず受けなければならないのです。
 「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ書6章20ー23節)
 罪のないお方が、罪人の救いのために十字架の上で犠牲の死を遂げて下さった神の御子イエス様に感謝です❗️