『赦される幸い』−ヨセフの思惑− 創世記42章1-38節  2020.5/24 港教会

『赦される幸い』−ヨセフの思惑−
創世記42章1-38節  2020.5/24 港教会
 この42章からは、飢饉によってヨセフと父ヤコブの家族との再会が実現される箇所ですが、神様は災いをも良い事のために用いられたのです。
「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた」箴言16章3.4節)
 このみことばは、すべての出来事の中に神様の意図があると教えています。ヨセフと父ヤコブの家族との再会は、飢饉という試練の中で用意されたのです。
 さて、父ヤコブは飢饉に際して、エジプトに下り、食糧を買って来るように息子たちに命じました。ところが兄たちは、お互いに顔を見合わせたのです。
 かつて兄たちが、弟のヨセフを奴隷として売り飛ばした所がエジプトだったので彼らは躊躇したのです。
 20年ほど前のことであっても、彼らは心の責めを持ち続けていたのです。犯した罪は赦されない限り、その責めから解放されることはないのです。
 このように、弟ヨセフに対して責めを負っていた兄たちは、過去の罪と向き合い、精算する時が来たのです。
 飢饉のために、エジプトに穀物を買いに行かなければならないという状況は、神様によって備えられたものなのです。
 そのような中で、ヨセフは20年振りの兄たちとの再会となったのです。
 ところが、ヨセフは兄たちをスパイ扱いにし、しかも、ヨセフは弟のベニヤミンをエジプトに連れて来るようにと兄たちに命じたのです。
 その時に、兄たちは弟のヨセフを奴隷として売った事で今罰を受けているのだと、お互いに言い合ったのです。その光景を見ていたヨセフは泣いたのです。
 黙示録20章11節〜15節で、キリストによる最後のさばきの座において、キリストを信じていない人々が、キリストによってさばかれるのですが、その時に自分の罪の大きさに気付き謝ったとしても、時すでに遅しなのです。
 というのは、さばきの座においては、罪が赦されるチャンスはなく、罪がさばかれる時なのです。
 このようなキリストの最後の審判の時ではなく、神様は私たちの隠れた罪のすべてをご存知ですから、生きている今、神の前に告白して赦される必要があるのです。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)
 「罪を告白する」という「告白」は同じ事を言う、つまり今言い表した罪は本当の事ですという意味なのです。
 もし、兄たちが目の前の宰相が弟のヨセフと知れば当然、「ごめんなさい!」と謝るでしょう。しかし、自ら犯した罪の重さを認識することなく謝るというのは、真の悔い改めではないのです。
 ヨセフはそれを避けるために身を明かさなかったのではないかと考えられるのです。
 さて、兄たちはヨセフの思惑とも知らないで、重い気持ちで父の所に帰りました。ところがその道中、それぞれの袋に支払った銀貨がそのまま戻されていたのを見て身震いしたのです。
 そして、彼らが家に帰り、エジプトでの出来事やその経過を父ヤコブに話した時に、そのことを聞いた父ヤコブは、ヨセフだけでなく、末の弟であるベニヤミンまで失ってしまうのではという恐れを抱いたのです。
 このように飢饉がもたらした災いは、ヤコブの家族を大変悩まし、苦しめたのです。しかし、これらの事は、父ヤコブと家族との再会のためのヨセフの思惑だったのです。
 つまり、ヤコブの家族が経験している試練には明確な理由があったのです。
 神の子どもである私たちも、試練の中に置かれた時、そこには何か理由があるはずと熟慮しつつ試練を受け止めましょう。
 さて、兄たちはこれらの出来事を通して、かつて犯した罪から解放されるためには、悔い改めるという行為を避けては通れなかったのです。
 もし、犯した罪をそのまま放置するなら、その人の心はいつまでも責められるのです。しかし、赦された者の幸いとは、心の責めから解放されることです。

 兄たちが蒔いた種によって、罪の責めを負っていたのですが、その刈り取りは、間もなく終わりを迎えようとしているのです。
 兄たちがここに至るまでに痛みと苦しみが伴いました。しかし、兄たちの魂がいやされるためには、どうしても必要な外科手術だったのです。
 私たちも罪ある者ですが、心をすっきりさせるために告白するのではなく、すべてをご存知である神様を知っているゆえに、罪の赦しを祈り求めるのです。しかし、神様は罪をさばくためではなく、罪人を愛し、いつでも罪を赦そうと待っておられるのです。
 何よりもイエス・キリストの十字架の赦しを体験している者は幸いであり、そして、ヨセフの兄たちも間もなく、神様とヨセフによるすばらしい赦しを体験することになるのです。

「幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。」詩篇32篇1、2節)