「人生の最期にその人の生き様を見る」 創世記50章1―26節 2020.7/19 港キリスト教会

「人生の最期にその人の生き様を見る」

                                                創世記50章1―26節

 創世記最後の学びは、ヤコブの人生を振り返りつつ、ヤコブとヨセフの最期はどのようであったかを学ぶ。

1.ヤコブの人生と最期 ヤコブと母は、長子の権利を兄から騙し取り、兄に命を狙われて母の生まれ故郷ハランに身を隠す。そこで20年過ごし、カナンに帰郷直前に兄エサウと和解。その後、カナンの地が飢饉に。兄たちがエジプトに食糧を求めに行くことで、父ヤコブはエジプトの宰相であったヨセフと再会し、ヤコブの家族は飢饉を逃れるためにエジプトに移住。

 ある日にヤコブは、エジプトの王ファラオの前で、「私がたどってきた年月は130年です。私が生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖のたどった日々、生きた年月には及びません。」(47章9節)と答えた。

 ヤコブは苦労の絶えない人生を送るが、信仰生涯は全うしたと聖書は語る。「信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました。」

(ヘブル書11章21節)   

 振り返れば、ヤコブの信仰が褒められるほどのものではなかった。それでも、神様は決してヤコブを離れず見捨てず、また慰め励まされた。そして、ヤコブは波瀾万丈の人生の最期を迎えるが、神の御国に行くことを固く信じていた。「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろのちに来たるべき都を求めているのです。」(ヘブル13章14節)

2.ヨセフの最期(22節~26節)ヨセフは、孫や曾孫に囲まれて幸せな晩年を送った。神様と共に歩んできた人生は幸いである。年老いて何のために生きて来たのか分からず、死と死後の問題に何の解決もなく死を迎える人が多い。地上で必要であった財や持ち物は、次に来る霊の世界に持って行くことはできない。

「私たちは、何もこの世には持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。」

(第一テモテ6章7節)

 聖書は、物質的な祝福を祈り求めることや所有することを禁じてはいない。しかし、目に見えるものは一時的であると教えている。

「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(コリント第二4章18節)

 目に見えるものを追い求めて手にするだけの人生は、心は満たされず空虚である。しかし、神様と共に生きる人生は、生きる目的と意義を見出し、神様とともに歩み終えた人生最期の先には、永遠の御国が用意されている。