「神様が成されたことです!」創世記40章1―23節     2020.4/19  港教会

    「神様が成されたことです!」
     創世記40章1―23節     2020.4/19 港

 新型コロナウイルスは世界中に蔓延し、各テレビ局を通して現場の生々しい状況が伝えられていますが、現場でないと伝わらないのが、人々の声や色々な音や匂いです。15節を直訳すると、「私はこの穴に入れられるような」と訳せるのですが、ヨセフがいる所(穴)は実に劣悪な環境でした。しかも「ヨセフの足は、苦しみのかせをはめられ、その首は鉄のかせに入れられた。」(詩篇105篇18節)のです。
 光は遮断され、排泄物の臭い、足には重い鉄の鎖に繋がれていた不条理な現状をヨセフは、どう思っていたのでしょうか?
 ヨセフはエジプトに奴隷として売られた時も、無実の罪で監禁された時も、途方に暮れることはなかったのです。彼は、置かれた状況(環境)を享受し、その中で忠実に、そして前向きに生きていたのです。
 それは、私の信じる神は、いつも共におられるという信仰によるものであります。
 では、神がいつでも共におられるというなら、なぜヨセフが監禁されないようにされなかったのか。あるいは、監禁されたヨセフを助けることができなかったのかという疑問が残ります。
 その疑問を解くみことばが「彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになるときまで、主のことばは彼を練った。」(詩篇105篇19節)にあるのです。ここでの「彼のことばがその通りになる」とは、ヨセフが少年時代に見た夢の意味を兄たちに語った通りになる。つまり、ヨセフがエジプトの宰相(総理大臣)になって、父ヤコブの家族がエジプトでヨセフとの再会が実現する時です。
 その時のために、エジプトの宰相になるための品性と必要な知識や情報(献酌官や調理官から)などを身に付けるための6年間の投獄生活であり、信仰の訓練の期間だったのです。 
 FBマイヤーは、ヨセフの性格を次のように言っています。「ヨセフは父親に甘やかされたため、少し増長(思い上がる)していた。長服に鼻にかけ、また軽率に口を聞く傾向があり、やがて自分は偉い人になるというということで、頭が一杯だった。これらは大きな欠点とは言えないが、精神力、把握力、支配力には欠けていた。ところが牢獄での経験は何と彼を変えたことでしょうか。」と記している。
 もう一度先ほどの詩篇105篇18節を見ましょう。「ヨセフの足は、苦しみのかせをはめられ、その首は鉄のかせに入れられた。」の英訳は、「ヨセフの魂は鉄の中に入った。」のです。
 つまり、ヨセフがエジプトの宰相になるための品性が、鉄の柵、鉄の足かせの苦難から身に付けることを可能としたのです。
 人生における艱難辛苦は決して無駄にはならないのです。ですから、思いがけない試練にたじろいではならないと聖書は勧めるのです。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現われるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」(第一ペテロ4章12、13節)
 ヨセフの軟弱な魂は鉄の訓練によって強固な魂へと変えられたのです。そして彼の将来は、実に輝かしいものになって行ったのです。
 さて、ヨセフが牢獄から救出されることで神様にはお考えがありました。
 それは、神の奇跡によるのではなく、ヨセフの夢の解き明かしという賜物を用いられて、牢獄からの解放という方法をとられたのです。しかも、その方法がやがてエジプトの総理になるための前準備であった事は、ヨセフ自身も知る由もなかったのです。
 さて、ある夜に献酌官と調理官(彼らはエジプトの王に背いて牢獄に)とが夢を見たのです。その夢はおのおのに意味があったのです(5節)。
 その翌日、ヨセフが彼らの所に行くと、二人はいらいらし、顔色が悪かったのです。
 それは、夜に見た夢によるものでした。 
 彼らは自分たちが見た夢に不安を覚え、それを解き明かす人がいないことに苛立っていたのです。そこでヨセフは「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」と言ったのです。
 牢獄という試練の中で練られたヨセフは「それは神様のなさることではありませんか!」と自分に与えられている非凡な才能と賜物を隠し、神様がなされたことであると証ししているのです。
 私たちも、自分を誇り、自慢し、自己本位になり易いのですが、いつでも神様のみわざを、そして御名を褒め称えましょう❗️
 さて、ヨセフは2人の夢を解き明かしました。その夢は献酌官長にとっては良い夢でしたが、調理官長にとっては最悪な夢でした(20―22節)。
 そこで、ヨセフは良い夢を見た献酌官長が、牢獄から出た時には、私のことを思い出して下さい。そして私に恵みを施して、ここから出られるようにパロ王に話してくれるようにお願いしたのです。しかし、この献酌官長は元の地位に戻った後、すっかりヨセフのことを忘れてしまったのです。
 人に嫌なことをされたことは忘れないのですが、人に良くしてもらったことは忘れやすいのです。ですから、私たちは時々だれかにして頂いたことを思い起こし、感謝することも大切です。でないと、人にした事だけを数えてしまうのです。あの人にこれだけしてあげたのに、感謝もない、お礼の一つもないと思ってしまうのです。人に良いことをしたにも関わらず、その人をさばいてしまうという結果を招きかねません。
 主イエス様は、「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章3、4節)と教えられたのです。
 結局のところ、献酌官長は、ヨセフへの恵み(牢から解放されて)を施すことをすっかり忘れ、自分のことしか考えていなかったのです。
 恵みは無償で、何の痛みも犠牲もないゆえに忘れやすいものです。 
 主イエスは私たちの罪のために、十字架で死なれて、三日目に墓よりよみがえられたのです。 そのことを信じて、罪は赦され、永遠のいのちを得たのです。主イエス・キリスト尊い犠牲による無償の愛と恵みに感謝❗️そして、いつも忘れないように❗️
「あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章8、9節)