『神の取り扱いによって』 −良心の呵責からの解放− 創世記43章1-15節 2020.6/7 港キリスト教会

『神の取り扱いによって』 −良心の呵責からの解放− 創世記43章1-15節 
 カナン全域の飢饉が長引き、エジプトで買った食糧も底がつき、父ヤコブは再びエジプトに下り食糧を買うように兄たち言いつけた。ところが、ユダが末の弟ベニヤミンを連れて行かないと食糧を買えないという事情を父ヤコブに話した。しかし、ヤコブはベニヤミンを手放すことに躊躇した。そこで、ユダはすべての責任は自分が引き受けると父に話した。そもそも、家族の上に降りかかっている災いは、かつて兄たちが蒔いた種の刈り取りであり、しかもユダはヨセフをエジプトに売ることを提案した張本人であったので、一切の責任を背負ったのではないだろうか。
 さて、20年ほど前に、生意気な末っ子のヨセフをエジプトの奴隷として売り飛ばすという悪事を働いた兄たちは、今もなお良心の呵責を持ち続けていた。

 たとえ、兄たちが父を騙し続けたとしても、彼らは罪悪感の責めから解放されることはなかった。しかし、神様は当時の飢饉という災いを用いられて、兄たちを罪の悔い改めへと導かれた。さらに、弟のヨセフとの出会いの結果、過去に犯した罪の赦しを体験した。そして、兄たちは20年間も心の中に持ち続けていた良心の呵責から解放された。

 今も昔も、決して変わることのない聖書の教えは、罪を犯せば必ず刈り取りがあり、その報いは必ず受けなければならないということを教えている。
 「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ書6章20ー23節)
 十字架の上で、私たちの罪のための身代わりの死を遂げ、三日目に死からよみがえられた神の御子イエスを信じることこそ、罪が赦され、永遠のいのちを受け、天国に行ける唯一の道である。アーメン!