「神がキリスト者に求められること」ローマ書12章1-2節   2021.2/21 港キリスト教会

  「神がキリスト者に求められること」 

 ローマ書12章1-2節  2021.2/21 港キリスト教

 イエス様のたとえ話です(ルカ15章11−31節)。兄が父に財産分けをしてもらい、ほどなくして遠くの国に旅立ったのです。ところが、兄は湯水のように財産を使い果たし、飢饉に見舞われ、食べるのも困り果てた時、彼は我に返って自分の罪を認め、父の家に帰る決心をしたのです。

 やがて、わが子の帰る姿を見た父は、大喜びで息子を迎え、祝宴を設けたのです。父は息子がどんな人間になっているのかを期待して待ち続けたのではなく、息子自身が帰ってくることを待ち望んでいたのです。このたとえから、罪深い私たち人間に対する神様の深い愛を見ることができるのです。 

 さて、もしこのたとえ話がさらに続くとして、私はこのように考えたのです。それは、帰って来た放蕩息子のその後であります。父は、帰ってきた息子がこれから先は、良い人生を送り、再び罪深い生き方をすることのないようにと願ったはずです。

 12章1節のそういうわけですからというのは=罪深い人間が神様を信じることによって罪赦され、義とされるという神の救いにあずかったのですから=ということであり、それは、放蕩ざんまいの生活から帰ってきた息子が、その後良い人生を送ることを心から願う父親と同様、神様も罪を悔い改めて救われたクリスチャンが、神に喜ばれる人生を送ることを願っておられるのです。

 さてけさは、神様が願っておられる2つのことについて学びましょう。

 第 1は、神様に自分自身をささげて生きることです(1節)。

 まず、ささげるとは、自分のからだを用いて、神様に仕えることであります。1節後半にある礼拝とは、奉仕するという意味があり、それは労働者(非雇用者=ラトリュオー)が雇い主からの給料を受けることに対して、その返礼として自分の労働を雇い主に提供することであります。

 その関係とは、主人と奴隷といった関係ではなく、自発的な関係が両者に成立しているのです。このような関係から奉仕する、あるいは神様に奉仕(ラトレイヤー)する、神様を礼拝(ラトリュオー)するという意味になったのです。

 つまり霊的な礼拝とは、けさのような特定の礼拝儀式を行うだけでなく、日々の生活の中で神様に仕え(奉仕)て生きることであり、またそれは日々の生活行為が神との関係の中でなされるということであります。

 バークレーは、「『私は神を礼拝するために教会に行っています。」と言うであろう。しかし、同時に「私は神を礼拝するために、工場、会社、店、役所、学校、家庭に行っている」とも言えなければならない。』と語っているのです。

 韓国でこんな逸話があります。教会で特別集会をしましたが、その集会が終わると、ある長老の婦人が教会に布団を持ってきました。その理由を聞くと、うちの主人は教会では天使のようですが、家に帰って来たら人が変わりますので、悪いですが、教会で住むのが良さそうなのでということで、布団を持ってきたという話です。

 確かに私たちも、日曜日の礼拝の自分と、この世に遣わされている自分とがあまりにも違いすぎるなら、毎週の礼拝は真実な礼拝とは言えないかも知れません。

 毎週の真実な礼拝は、日々の生活の中で準備されて行くといっても過言ではないのです。もちろん、日曜日の礼拝は私たちの信仰生活の基盤となるのです。と言って日々の生活の歩みがおろそかになってはいけないというのは言うまでもないことです。 

 つまり、自分の体をもって神と共に生きる(神に属して)というのは、信仰生活における礼拝の一部でもあるのです。それこそが、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物となりうるのです。

 さて、帰って来た放蕩息子はお父さんの前にいる時だけ、いい顔をしていたのではなく、たとえお父さんがいない所でも一生懸命働いたはずです。それが本当に悔い改めた者の生き方だからです。

第 2に神様が私たちに求められていることは、神のみこころを知って生きることです(2節)。実は神のみこころと私たちの日常生活とは深く関わっているのです。

 毎日変化のない生活、毎日繰り返しの生活、毎日疲れを覚える生活、いつも束縛を受けているような生活から逃れるために、お父さんに財産を分けてもらって新天新地に飛び出した息子でした。 

 結果的には、彼は自分に合う生活や自分が気に入る人生を見出すことが出来ずに、それどころか現実の厳しさを思い知って父のもとに帰ったのです。自分のお気に入り、自分の楽しさだけを得る人生というものが、果たしてこの世にあるのでしょうか。

 実は、私たち人間が生きるということにおいて、神様と密接な関わりがあるということを知るなら、その生き方が変わっていくのではないでしょうか。

 私たちも神様を知って、少なからず神を知る前とは生き方が変化したはずです。もし、以前と変わらないなら、その人の信仰に問題点があるのではと思われるのです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ書6章4節)

 つまり、イエス・キリストを信じたことによって、その人の生き方が変わるのです。悪い方向にではなく、良い方向という新しい生き方に変わるのです(引用-第二コリント5章17節・ガラテヤ6章15節・エペソ4章23,24節・コロサイ3章10節)

 新しい生き方とは、2節にあるように神のみこころ(私たちにとっても益となる・神に受け入れられる・目標に達している-完成している)とは何かということを求めて生きることです。そのためには、心の一新による自己変革が求められるのです。

 それはキリストにゆだねて生きる時に起こる御霊の支配による質的変化、あるいは内的変化であり、自己中心的な生活から、キリスト中心の生活に生きることであります。

ということで、パウロは2節の冒頭で、誘惑の多いこの世に調子を合わせて(この世の型にはまる)ないようにと注意を促しているのです。

 しかし、彼はわれに返って言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることでしょうか。それなのに、私はここで飢え死にしょうとしている。」(ルカ15章17節)と罪を悔い改めた放蕩息子は、退屈に思えた毎日の生活の中に、真実で生きがいのある人生を見出したのです。

 神様を信じて救われて、そして神様が願っておられることを熱心に求めて生きるところに、人の生きる目的と生きる意義があり、そして心に神の平安(満たし)がもたらされるのです。