「信仰の原点」―神がヤコブに求められたことー創世記33章1−4節、35章1−15節  2020 2/23 港キリスト教会

 「信仰の原点」―神がヤコブに求められたことー創世記33章1−4節、35章1−15節      

 物事に行き詰まれば原点に戻れとよく言われる。神はヤコブ(60歳頃)に、叔父ラバンの地からカナンに帰るように命じるとともに①兄エサウとの和解②信仰の原点に戻ることを願われた。ヤコブにとって兄との和解を避けることはできなかった、同様に①私たち人間は神との和解を避けては通れない。なぜなら、私たちもヤコブと同様に神に赦されなければならない立場にある。神は、罪人である私たちを愛し赦すために、神ご自身から和解の道を示された。それが、キリストによる和解である(コロサイ1章19−22節 ) 

  神の御子キリストは、私たちの罪を背負い十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられた。この主イエス・キリストを信じる時に救われる。次に、ヤコブたちがカナンの地に帰る前に、神が彼らに求められたことは、偶像との決別であった。つまり②この世からの聖別である。ヤコブは、20数年前、叔父ラバンの住むパダン・アラムに向かう途中、ベテルと名をつけた所で神の顕現を経験し、神の約束を頂いた。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28章15節)ところが、ヤコブにとってベテルでの最初の体験は、長い歳月の経過と共に次第に色薄れ、いつしか居住地での文化や風習に慣れ、彼の二人の妻やしもべたちが身に付けていた偶像や飾り物もあえて咎めなかった。

 信仰生活において私たちは、月日が過ぎる中での慣れ合い、気の緩み、世との妥協等に注意したい。神を信じた当初、罪に対して非常に鋭敏であった心が、いつのまにか無感覚、あるいは無頓着になってはいないだろうか。聖書は、すきを伺うサタンの存在を明記している(ペテロ第一5章8、9節)。

 そこで、ヤコブたちはカナンに帰る前に偶像と決別をした。さて、ヤコブにとってのベテルとは、叔父の地パダン・アラムに行く前に、神がヤコブに顕現された信仰の原点でもあった。そして、それ以後ヤコブは信仰の原点であるベテルでの経験に立ち帰ったはずである。

 では、私たち一人一人の信仰の原点はどこにあるのか。信仰の土台は聖書です。同時に神を信じるきっかけとなったもの、あるいは信じるきっかけとなった事は、ひとりひとりにとって貴重な体験である。 

 それは、信仰の原点になる。「あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」  

               ( 黙示録2章4、5節)