「イスラエル誕生の秘話」−ヤコブからイスラエルへ−  創世記32章1-32節 20.2/19 港

  イスラエル誕生の秘話」

  −ヤコブからイスラエルへ−

    創世記32章1-32節 20.2/19 港

  イスラエルは日本の四国ほども面積で、人口は888万人(2018.6月)、民族はユダヤ人(約75%)、アラブ人その他(約25%:2016.9月)

 ユダヤ教(75%)イスラム教(17.5%)キリスト教(2%)

 ヘブル人(川向こうから来た者:アブラハム

 イスラエルアブラハム、イサク、ヤコブの子孫:ヘブル人と同じ)。

 ユダヤ(本来はユダ部族の者、ユダヤ地方出身の者)

 けさは、ヤコブの名がイスラエルと名付けられた経緯と霊的な意義について学びましょう。

さて、ヤコブは叔父のラバンのもとで20年間仕えてきたのですが、カナンの地に帰るようにと神様に命じられために、パダン・アラムの地を離れました。

 その道中、神の使いたちがヤコブに現れたのです。では、なぜ神の使いがこの様な時にヤコブに現れたのでしょうか。それは、エサウとの再会は避けては通れないという問題(悩み)を抱えていたからです。

 というのは、かつて父と兄エサウを騙して長子の権利を奪ったために、エサウヤコブを殺そうとしたために、母の叔父が住んでいるパダン・アラムに身を隠したのです。

しかし、カナンの地に戻るということは、エサウとの再会を避けることが出来ず、どうしても向き合わなければならない難題でした。

 しかし、それはヤコブにとって恐れと不安が伴うものでした(7節)。

そのような状況の中で、神の使いがヤコブの前に現れたのです。

 しかし、それはヤコブにとっては、大きな励ましと勇気付となり、エサウとの再会を決意する良い機会となったと思われるのです。

 それで、ヤコブエサウのもとに使者を送りました。そして、ヤコブには多くの富があると知らせて(見せ付けて?)、エサウに好意を得ようと考えたのです。

第1にヤコブは人間的(姑息)な手段で解決を図った

 それは、なだめの供え物をエサウに見せて、積年のエサウの怒りをかわすためであったのです。

かつて(およそ20年前)、一杯のおいしい煮豆で長子の権利をエサウから奪ったヤコブのずる賢い手口を思い起こすのです。

このように、人の性格あるいは気質というのは、そう簡単には変わらないのです。いや変えられないのかも分かりませんね。

私ごとですが、私が神様を信じた時に、自分では嫌と思っている性格が変わるようにと、いつもお祈りをしていたのです。

ところが、ある時点で自分では嫌だと思っている性格を変えようと時間を費やし、あるいは神様に祈ることよりも、ありのままの自分を受け入れることの方がもっと大切であるということに気付かされたのです。

実は、神様は様々な性格の人を造られているのです。ですから、自分の性格も神様から与えられたものではと思う時に、自分の性格を少しずつですが、受入れられるようになって来たのです。

キリストの弟子たちも、色々なタイプがいたのです。しかし、神様はそれぞれの個性を生かされ、神様のために尊く用いられたのです。

どのような性格の持ち主であっても、神様の御手の中で役に立つ者に、あるいは良い働き人に変えてくださるのです。

「あなたの御手が私をつくり、私を整えてくださいました。どうか、私に悟らせ、私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」

       (詩篇119篇73節)

 ところが、ヤコブは神と共に歩んではいたものの、相変わらず(20年の歳月が経っていたが)ずる賢く、姑息で、人を出し抜くという打算的な人物だったのです。

さて、使者がヤコブのもとに帰って来ました(6節)。そして、エサウヤコブを迎えるために400人を引き連れてやって来ると報告したのです。

そのことを聞いたヤコブは非常に恐れ、不安に包まれたのです。

それで、ヤコブは自分が命拾いするための奇策を考えたのです(7、8節)。

第2にヤコブは必要に迫られて神に祈った

またしても、ヤコブのずる賢さを見るのですが、彼も神様を信じる者です。切羽詰まった時には、神様に祈ったのです。

ヤコブは初めに祈りありきではなく、初めに行動ありき、それから祈りという信仰の持ち主の様でした。

私たちはどうでしょうか。まず祈ってから行動する。あるいは行動してから祈るのか。

どちらが良いのかというのではなく、信仰生活で大切なことはバランスなのです。

もちろん、祈るだけで行動が伴わない、あるいは行動だけで祈りがないというのはバランスの欠いた信仰姿勢でしょう。

祈りと行動・行動と祈りの中で、神様の御心を模索するというのがバランスのとれた信仰ではないでしょうか。

ところで、ヤコブの祈りについて言うならば(9―12節)、実に一方的な祈りであり願いであって、ここでも、ヤコブの自己中心的な人間性を見るのです。

さらには、ヤコブは神様に祈った後も、姑息な手段を用いてエサウとの再会に備えようとしているのです(13―21節)。

  さて、22節から32節は少し難解な箇所であります。というのは、ヤコブと闘った「ある人」とは神様でした。

 ①その人はなぜヤコブと闘ったのか。

 ②その人がヤコブに勝てなかったとはどういうことなのか。

 ③なぜヤコブのもものつがいを打たれたということであります。

 これらの3つの課題から何を学ぶ必要があるのでしょうか。

 第3にヤコブは兄エサウとの再会の前に心砕かれる必要があった

①まず、神であられる方が人の姿をとられてヤコブと夜明けまで格闘されたというのは、ヤコブのこれまでの一連の出来事において、自分の力や知恵で何とか対処して来たのです。

また兄エサウとの再会においても、自分の考えで行動しょうとしているのです。

しかし、神様はヤコブがこれからは、自分の力のみで生きて行くのではなく、神様とともに生きる者である事を分からせるために、神様はヤコブと面と向かって格闘されたのではないでしょうか。

②次に、神様がヤコブに勝てないということについては、神様が負けられたという意味ではなく、ヤコブがあくまでも引き下がらなかったために、神様の方から身を引かれたということではないでしょうか。

確かに彼の肉の力は強いということが証明されたのですが、力任せの生き方は、早晩行き詰まる時が来るのです。ですから、もっと神様にゆだね、明け渡して生きることを教えようとされたのではないでしょうか。

つまり、ヤコブは神様に負けることを学ばなければならなかったのです。

③さらに、神様がヤコブのもものつがいを打たれたことこそ、あくまでも自分の力で生きようとするヤコブを砕くためであったと思われます。

ヤコブはもものつがいを打たれたのを見るたびに、自分が神様に勝ったのではなく、いかに自分がもろくて、弱い者であることを思い知ったことでしょう 

それが、ぺヌエルの経験です。ぺヌエルとは神様の御顔の面前という意味がります。

ヤコブはぺヌエルという一夜の経験を通して、肉の人から霊の人へと変えられたのです。

そして、彼の名はもはやヤコブ(押しのける)ではなくイスラエル(神と戦う)と改名されたのです。

さて、神様はヤコブと同じように、人生における様々な出来事の中で、私たちの信仰を練られる(訓練)のです。 

そして、その経験を通して頑固な肉性が砕かれていくのです。

そのような霊的経験(ヤボクでのぺヌエル:)を通して、私たちの信仰はたとえ時間がかかったとしても成長していくのです。