「信じるだけで救われる?」要約 ヤコブ2章14-26節 2021.7/18 港キリスト教会

 「信じるだけで救われる?」 ヤコブ2章14-26節  

この聖書箇所では行ないのない信仰について学ぶ。

14節:行ないのない信仰(知識・儀式・口先だけの信仰)は無益で無力。

15-17節:行ないのない信仰は無価値で死んでいるようなものである。

18節:信仰者の行いはその信仰がどの様なものであるかのバロメーターでもある。

19−20節:唯一信仰は評価に値するが、悪霊たちも同じ信仰を持っていることを忘れてはいけないと行ないのない信徒を嗜(たしな)める。

21―25節:行ないの伴う信仰の持ち主であったアブラハムとラハブが登場する。

 アブラハムはイサクを祭壇にささげた時、その行ないによって義と認められたが、アブラハムが義と認められた時とは、イサクもイシュマエルも生まれていない、つまりアブラハム、妻のサラも子どもが与えられる可能性が全く見られない時に、神様がアブラハムに「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」(創世記15章5、6節)と語られたことばを信じて義とされた。

 それでは、信仰による義と行いによる義とは矛盾しないのか。この箇所でヤコブは、アブラハムがイサクをささげるという彼の信仰が全きものであったことを強調しているのであって、行いによって義とされるという教理的なことを述べているのではない。

 では、信仰の全きとは何か、それは信仰の完全さを求められているのではなく、神様への高い信頼度と従順度である。

 次に、ラハブの出来事とは、異教徒であった彼女は、イスラエルの民の救出のために自らの命の危険を顧みずに協力したので、神様は彼女の行為を義とされた。しかし、ラハブの行ないの原点は、神を恐れる信仰による義にある(ヨシュア2章9-11節)。