「健全な心の目で」 ―神と富に仕えることはできない―マタイ6章22―24節
22節と23節の目は、心、知性、理性という目であり、その目をもって神と地上の富をいかに見るべきかを学びましょう。
まず❶神と富との関わりについてみましょう。
19節と20節で主は、地上(有形)のことだけに心を留めて生きるのではなく、天国(無形)のことを心に留めて生きるようにと教えられた。
確かに、世の富については注意を払う必要がある。それは、心を惑わし、誘惑に陥れるという危険が常にある。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(第一テモテ6章10節)とみことば警告している。
次に❷世の富や所有物についての正しい見方とは
注解者バークレーは
『❶究極的には、すべてのものは神に属しているという見方。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇24篇1節) 人間は神が造られたものを用いることはできても無から有を造り出すことはできない。
❷に常に人間は物質よりも大切であり、価値があるという見方「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ書43章4節)。
❸従属的な善であるという見方。この善とは、人が名誉ある地位を保ち、家族を助け、同胞に奉仕しようとして物質を求めることは良い事であり善である。しかし、快楽や贅沢のためだけに物質を追い求め、富のために生き、富のみに生きがいを感じるようになれば、富は従属的な善でなくなる。もちろん、富や金銭や物質を持つことは罪ではなく、それをいかに神のために有益に使えるように祈り実行することの中に所有の本来の価値がある。
生きるために用いられる金銭は有効な使い方であるが、快楽や贅沢のみに用いられるものには注意が必要である。』と語っている。
この世においてお金や富と関わりなく生きることは不可能である。それらといかに関わり、それらをいかにとらえるかが大切である。そのために、健全な心の目(霊的に目が開かれた)を持たなければならない。
「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見える者は一時的であり、見えない者は永遠に続くからです。」(2コリント4章18節)