「求めよ=与えられる」―祈りにおける3つの認識―
マタイ7章7―11節
祈りにおいて認識すべき大切なことは何かを学びましょう。
第1 何を求めているのか(7節―8節)
祈りとは何でもかんでも求めれば良いのではない。
では、何を認識して祈るべきか。それは、節度ある求め方、我欲ではなく、神と良い関係の中で必要不可欠なものである。
神は夢の内にソロモンに現われ、仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」そこでソロモンは、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」との願い事は主の御心にかなった。
第2 求めるものの是可否を神はご存知(9節―10節)
私たち人間は欲望という思いにかられやすく、また自己中心という罪に陥りやすいものである。
それゆえに私にとって真に良いものとは何かを判断し難いという傾向があるのではないだろうか。
しかし、神様に間違いはない。全能で完全なお方であり、私たちを愛し、私たちのことをよく知っておられるだけでなく、目を留めてくださる。
第3 求める神は私たちの父である(11節)
主は、親が子どもが求めているものとは違うものを与え、まして、子どもにとって良くないものや悪いものを与えることがあろうかと言われた。
もし、神様が私たちの父であるという事実をしっかりと認識するなら、地上の父がそうであるように、なおのこと天のお父様は、私たちにとって良いものを下さらないはずがないと言われた。
天のお父様をそのように認識するなら、「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求めるものたちに、どうして求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(11節)とのみことばを受け留めることができるのである。