『災いの中にも共におられる神』      創世記39章11-23 2020.4/5 港

   『災いの中にも共におられる神』

     創世記39章11-23 2020.4/5 港

先週は、ポテイファルの妻の誘惑に対して、ヨセフは毅然とした態度で、その誘惑に屈しなかった所から学びましたが、なおポテイファルの妻は、執拗にヨセフとの肉体関係を迫りました。しかし、ヨセフはその妻の誘惑を退けたのです(10節)。

ところが、彼女はその場から逃げたヨセフに濡れ衣を着せて、夫であるポテファルを騙してヨセフを罠にはめたのです。

その結果、ヨセフは投獄されるというまたしても不条理な出来事に見舞われたのです。

しかし、ヨセフがいかなる状況の中にあっても、すべて神の御手の中にあったのです。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」(23節)

この「しかし」という言葉が、神様を信じる私たちクリスチャンにとって大切なフレーズです。

困難な状況の中に、あるいは厳しい現実の中に、そして、どうにも出来ないと思われるような中で、「しかし、主は私たちと共におられる。」あるいは、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル書13章5節)との励ましと約束があるのです。

このように聖書には、神様の励ましや約束の言葉で満ちているのです。

 さて、けさは厳しい状況に追いやられたヨセフに対して、神様はいかに働いてくださったかを見て行きしょう。

 

第1に、神様は監獄の長の心を変えられた(21節)

監獄に入れられたヨセフのために、神様は「監獄の長の心にかなうようにされた」のです。

私たちが、人の心を変えるというのは至難のわざです。

ところが、神様の御手は人の心の奥深くまでに届きます。たとえば、民の上に立つ権威ある王の心をだれが変えることが出来るでしょうか。しかし、主はいかなる人の心をも変えることができるのです。

「王の心は主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、向きを変えられる。」(箴言21章1節)

さらに、主は人の心を遠くから読み取られるのです。

「あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。」 (詩篇139篇2節)

身近に難しい人がいて困っている、あるいは悩んでいるという人が少なくありません。

そのような人から離れる(距離を置く)ことができるならいいのですが、そうは行かないことが多いのです。しかも、人の心は簡単には変わらないのが常です。

このような人間関係の難しさの中で、私たちにできることは、その人の心が変わるように神様に祈ることができるのです。

難しい人間関係も、神様と共に対処していくのが最善の道です。

神様は、様々なことで悩み、苦しんでいる私たちに、素知らぬ顔はされないのです。事実、監獄の長の心を変えられて、ヨセフに救いの手を差し伸べられたのです。

 

第2に、ヨセフは牢獄でのすべての管理を任された(22節)

神様が監獄の長の心を変えられて、ヨセフにすべての管理を任されても、ヨセフにすぐれた管理能力がなければ、監獄の長に信任は得られないのです。

しかし、神様はヨセフの潜在能力を用いるために、監獄の長の心をも変えてくださったのです。

神様は、社会の中で、また教会の中で、私たちが持っている能力や賜物が用いられることを願っておられます。

ですから、私たちが社会、学校、家庭において、あるいは教会のために自分の能力や賜物を生かしたいと願うことはすばらしいことです。神様は、私たちを尊く用いるために環境の不備をも整えてくださるのです。

 

第3は、ヨセフが何をしても成功させてくださった(23節)

ヨセフは監獄の中で何をしても成功させてくださったとはいえ、所詮、監獄という極悪な環境です。

そのような中で何をしても主が成功させてくださったとはいえ、それほど喜べる所ではなかったはずです。

しかし、ヨセフはどこにあっても、どのような状況の中にあっても、なすべきことを忠実に果していたのです。

それは、将来自分がエジプトの総理大臣になるということを知っていたからではなく、自分の将来がどうなるか全く予測できない状況の中で忠実に歩んでいたのです。

ヨセフのように、どのような状況においても、自分の将来をすべて神様に委ねつつ、忠実に生きることができるなら素晴らしいことであります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

         (詩篇37篇5節)

「あなたのわざを主にゆだねよ(転がせ)。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。」    (箴言16章3節)

これらのことから、私たちは今置かれた所で、正直にあるいは誠実に生きて行くことの大切さを教えられるのです。

回りの人の評価は不確かです。どれだけ一生懸命やっても、報われないこともあります。しかし、神様は見過ごし、また見逃されることはないのです。

ある人は、厳しい状況に置かれているかも分かりません。しかし、まず神様に現状を訴えましょう。

神様は私たちひとりひとりを見ておられます。そして、決して素知らぬ顔をされません。必要あれば、必ずご自身の御手を差し延べ助けて下さるのです。

ナオミにとって息子、ルツにとって夫を亡くすという失意のどん底の中で、ナオミは故郷に帰りました。そして嫁のルツは異国にもかかわらず姑のナオミについて行ったのです。

しかし、姑の故郷で、神様のすばらしい祝福が待ち受けていたのです。それは、ルツの再婚で、その相手はボアズでした。その出会いによって、ナオミもルツも幸せな余生を送ったのです。

しかも、その家系からオベデ、エッサイ、ダビデ、そして救い主イエス・キリストがお生まれになるという神様の素晴らしい計画にあずかるのです。

確かなことは、神様の導きの中にある人生、神様に信頼して生きる人生は、決して失望に終わることはないのです。

ヨセフは2度も大きな災いを経験しました。しかし、主はヨセフとともにおられたという事実は、厳しい状況に中にあったヨセフに勇気と希望をもたらしたのです。

私たちも困難なことや、つらい経験の中にある時は、神様を見失いやすいものです。しかし、そのような時こそ神様を信頼し、みことばの約束を固く信じましょう。

ヨセフが監獄の中にいたけれど幸いであったという証しではなく、ヨセフは、どの様な所にいたとしても、神様が共にいて下さったことが何よりも幸いであったのです。「あなたの一生の間。だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1章5節)