「世の終わりのラッパ鳴る時に」 第一コリントの手紙15章50−58節 2020.4/12 港キリスト教会

  「世の終わりのラッパ鳴る時に」

 第一コリントの手紙15章50−58節    

 2020.4/12 港キリスト教

 皆様イースター(復活祭)おめでとうございます!

 先日、大阪府兵庫県)に、緊急事態宣言が発令されて生活と仕事において大きな影響を受けられた方々、またイタリア、スペイン、アメリカ等のコロナ感染の凄惨な情景を目にして、日本は大丈夫かなと心配しつつ日々を送っておられる方々の上に主の助けと守りがありますように!

 さて、本日はイエス様の復活をお祝いするイースター礼拝ですが、今世界は非常に厳しい試練の中にあります。

 これから、将来はどうなるのかと不安を抱く人々が増えつつあります。 しかし、主を信じている私たちは、天国に行けるという希望の光が、不安で暗くなる心を照らしてくれるのです。

 主イエス様は終わりの時代には戦争、大地震、疫病、飢饉、天変地異等の災禍を被ると語られました。

 クリスチャンの中には、今日の世界情勢や世界的な異常気象を見て、黙示録にある患難時代に入っているのではと思われるかも分かりません。

しかし、主は「まだ終わりではありません。_____、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」(マタイ24章6、8節)と言われたのです。

「産みの苦しみ」とは、陣痛で痛みが徐々に増しながら出産する様子をたとえているのです。つまり、将来も何らかの患難が度重なって起こって来るということなのです。

 さて、けさは第一コリントの手紙15章50節から58節において、特に世の終わりにおける携挙とキリストの空中再臨について学びます(地上再臨については後日学びましょう)。

 52節で「終わりにラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」と書かれ、また第一テサロニケの手紙4章16節では、キリストの空中再臨の時に、まずキリストを信じて死んだクリスチャンたちがよみがえって空中に携挙され、次に生き残っている信者が携挙されると解釈します。

 では、主が信者を携挙される目的とは何か、それは黙示録3章10節にあるのです。「あなたの忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしはあなたを守る。」ためです。

 「試練の時には」という日本語訳は、大患難後携挙説に基づいていると思われます。原語は「時には」ではなく、ek(〜から)が使われているのです。 

 この箇所は「試練の只中から引き出されて守られる」と訳すのが適切かと思われます。

 つまりek(〜から)というギリシャ語をどう訳すかによって携挙の時期が全く違って来るのです。とはいえ、7年間の患難前の携挙か、あるいは7年間の患難直後の携挙かは神様にお委ねするほかないでしょう。

 私自身は、7年間の患難前携挙の立場であります。その根拠の一つに、誰がラッパを吹いているかの解釈によるのです。

 患難後携挙説者は、黙示録にある7年間の患難時代のラッパと第一コリントの手紙15章と第一テサロニケの手紙4章のラッパは同じということで、患難後期(3年半)直後の携挙の根拠にしていますが、コリントの手紙とテサロニケの手紙でのラッパは神様が吹かれ、黙示録でのラッパは御使いが吹きます。両者が起こる時の違いは明白であります(少し混乱されたかも分かりません)。

 では、いつ信者が携挙されるのでしょうか。

 近い将来に?ロシアとイラン、シリア、リビア、トルコ等の連合国がイスラエルを攻め入るという預言が成就する前か後かのどちらかに携挙が起こるのではと解釈されています。

 さらにその後、ヨーロッパ共同体の再編成(10ケ国?)され、イスラエルとアラブとの中東和平条約の締結後に、ユダヤ人の積年の祈願であった神殿(第3神殿)がエルサレムに建てるという預言の成就が待たれるのです。

 ですから、この度の世界的な新型コロナ肺炎のパンデミックは世の終わりの兆候の一つではありますが、やがて、世界各国のコロナ感染は治まることでしょう。ところが、人々はすぐに疫病の苦難を忘れて、そして人類の世界観はこれまでと何ら変わることなく、また心改めることなく、人類滅亡の道をまっしぐらに進んで行くことでしょう。

 そのような中で、私たちクリスチャンは共に集まり、共に主を礼拝する機会が戻ることに感謝しましょう。

 今回の世界的な試練(患難)を通して、私たちクリスチャンはさらに励まし合い、助け合い、祈り合って、来たるべき試練(患難)に備えなければなりません。

 今日の世界情勢と世界的な異常気象(天変地異)は、主イエス様の空中再臨と信者の携挙がより近づいて来たというしるしではないでしょうか?

「主イエスよ、来てください!」

     (黙示録22章20節)