「神のいつくしみと厳しさ(Ⅰ)」−失くして知る大切なもの−創世記3章20−24節
神はアダムにいのちを与え、また女を造られた。しかし、彼らは罪を犯したために、神は彼らが永遠に生きることを終わらせ、神の祝福に満ちたエデンの園から追放された(22−24節)。今回は、20節から一つの真理について学びます。それは、失った時に初めて分かる大切なものである。
アダムは罪を犯した結果、神から頂いた永遠のいのちを失ったことで、永遠のいのちがどれだけ大切で、価値あるものであるかを知ったはず。だから、神が彼の側に置かれた女の名前を「いのち=エバ」という名をつけたのではないだろうか。それだけでなく、神と交わり、神に従うことの大切さを知り、そして、神はいつくしみ深く、憐れみ深いお方であること、そして、義なる方、愛なるお方であることを知ったのではないか。
主イエスは、「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、めとったりとついだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子イエスの到来もそのよう実現するのです。」(マタイ24章37−38節)と警告された。大洪水が来てすべてのものを失った時に、人々は本当に大切なものは何かを知った。でも、時遅しであった。
人の子の到来とは、主イエスの再臨のことであり、終わりの時代である今日のことである。ですから、私たちは主イエスがいつ来られても良いように心を備えておきたい。
この世の流れ(科学万能主義....AI技術、5G時代)、この世の価値観(人間中心主義、物質中心主義...)の全てが悪ではないとしても、決してそれらに翻弄されることなく、分別(ふんべつ=世事に対して、慎重な判断、考慮ができる)がつく者でありたい。そのために、日々神と交わり(祈り)、神のみ声(みことば=聖書)を聞くことによって、神が与えて下さる霊的な祝福が私たち人間にとって一番大切であり、不可欠であることを心にしっかりと留めたい。
「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を受ける道です。私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできません。」
(テモテ第一6章6、7節)