「神の備えと信仰」
出エジプト記2章1−15節
モーセが、ユダヤの同胞を奴隷から解放する指導者となるための神の備えと背後にある人たちの信仰について見よう。
Ⅰ 両親の信仰(1-3節)
両親は3ヶ月も赤子を隠し通したが隠しきれなって、籠を作りナイル川の茂みに赤子を置いた。
(注解より)赤子を三ヶ月も隠し通せたのは彼女の信仰。そして、どうなるか分からない状況でナイル川の茂みに赤子を置いたのも神に託す信仰。神の守りの中で自分ができることを精一杯やり、隠しきれなくなるという限界を超えた時は神に託した(委ねた)。
Ⅱ 神の備え(4−10節)
籠の中で泣いていた赤子は、水浴中のファラオの娘に拾われただけでなく、赤子が乳離れするまで母の手で育て、その養育費もすべてファラオの娘によって賄われた。
赤子はモーセと名付けられ宮廷での高度な学問を身につけた。それは、モーセが指導者となるための神の備えであった。
私たちの人生において、先行きがどうなるのか不安な時がある。しかし、神は私たちのために良き備えと最善をなしてくださることを信じよう。
Ⅲ モーセの信仰(11−15節)
モーセは王に仕えつつ、イスラエル人としての誇りを持っていた。ある時ひとりのエジプト人が同胞を打つのを見て、モーセはそのエジプト人を殺した。
その翌日、ヘブル人同士の言い争いに巻き込まれ、その時に。モーセはエジプト人を殺したことが知られていると思い、ファラオ王もモーセを殺そうとしたのでミデアンの地に逃れた。
宮廷での教育だけでは民のリーダーになれなかった。モーセが自力で何とかしようとしたのが、失敗と失意の要因ではある。
(注解より)神の時、神の方法によらなければ、いかに信仰的な行為であっても、真の幸福をもたらすものとはならないということである。自分にとって神の時はいつなのか、神の方法とはどのようなものなのかを黙想しょう。