「礼拝は儀式×喜び!」 -安息日と礼拝-
マタイ12章1―8節
パリサイ人は、弟子たちの行動を律法違反だと抗議した。彼らは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。6日間働いて、...。7日目は休まなければならない.....。あなたはいかなる仕事もしてはならない(出エジプト記20章8―10節)。」の違反だと訴えた。それで、イエスは彼らを次のように非難をされた。
1 安息日の規定遵守と人間の優先(3、4節)
第一サムエル記21章1―6節から、ダビデと若者たちが空腹で幕屋に入り、祭司だけが食べることが許されていた聖別のパンを食べた。
実は、このパンは人が生きるために与えてくださる神に感謝するという象徴的な供え物であったが、ダビデとその連れの者が食べたにもかかわらず咎められなかった。
規定遵守よりも、人が生きるための必要が優先されたという事例を用いてパリサイ人に反論された。
2 安息日の規定遵守と礼拝の優先(5―6節)
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。.......。あなたは、いかなる仕事もしてはならない。」の第4の戒めの強調点は、仕事をしていけないことではなく、安息日を聖なる日とすることにあった。
(註解)「安息日を聖なる日とすることによって、人は仕事の奴隷から解放されるのです。際限ない労働から一時切り離して、自分の貪欲の餌食にならないように身を守るためなのです」(織田 昭先生)
ですから、祭司が安息日を聖なる日とするための主の宮での儀式の用意は、たとえ労働であっても罪(律法違反)にはならなかった。
イエスは、安息日の決まりごとが人間の必要を優先することはないと教えられた。
ところが、パリサイ人は、礼拝の優先こそ安息日を守ることであるという拘りが、形式的な礼拝が生まれたのでは。
神様は形式的な礼拝は喜ばれない。なぜなら、礼拝の遵守以上に人への憐れみは優先されるべきだからである。私たちの礼拝も形式的なものにならないように注意しょう。