「愛なる神を畏れて生きる」要約 第2コリント6章14−7章1節 2022.4/24 港キリスト教会

 「愛なる神を畏れて生きる」 

第2コリント6章14−7章1節

 

聖書が勧めるクリスチャンの生き方について、けさの箇所からご一緒に見て行きましょう。

 第1に、クリスチャンとノンクリスチャンについて

(14、15節)

  クリスチャンという名は、周りの人たちの皮肉を込めた呼び名である(使徒11章26節)。初代のクリスチャンは、いつでも、どこでも熱心にイエスのことを語り、14節の不信者とは、神に対して反抗的、あるいは攻撃的な態度を取る者であり、まことの光であるイエスを拒み、闇を愛した(ヨハネ3章19節)パリサイ人や律法学者たちは不信者であった。

 しかし、家族の人や家族以外の身近な人が、真理を知らずにキリスト教に対して反対や反感を抱いていても、不信者ではなくノンクリスチャンであり、神様に愛され、福音を伝える対象者である。

 

第2に偶像について(16—18節)

 偶像礼拝は、人よりも劣るものをあがめる行為であり、それは人としての価値を損ね、無価値なものにする(詩篇115篇2−8節、イザヤ44章9−20節)。何よりも、偶像礼拝は神様が深く悲しまれるだけでなく、無知な心をサタンに弄ばれ巧みに惑わされている状態である。

 偶像礼拝は真理の道ではなく、サタンの道連れとなって永遠の滅びに至る道であり、偶像礼拝から得るものは偽りの豊かさであり、まことの礼拝から得るものは真の豊かさである。

第3は神を恐れかしこみ、聖なる者となる(7章1節)

 私たちの罪が支払う債務とは、神のさばき(死後の永遠の滅び)である。そのさばきから逃れるために、キリストが十字架で身代わりとなられた。

 その方が、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(第一ペテロ1章16節)と勧めておられる。

 聖さは難行苦行といった修練ではなく、みことばの力によって得ることができる。それは、みことばの約束への全き信頼と従順である。

「どのようにして若い人(老弱男女)は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」(詩篇119篇9節)