「救いのチャンスを逃さないように!」
-犠牲の覚悟-
マタイ8章18―22節
イエスのメッセージは愛と力と権威に溢れ、人々の心を捉え、また多くの病をいやされていたので、多くの人々がイエスのもとに集まって来た。
そこにひとりの律法学者(エリートで身分や地位は高く、生活は安穏)が、イエスに「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」(19節)と言った。
彼は、イエスの教えに感動し、数々の奇跡のわざを見聞きしたことがイエスに従いたいという動機付けとなったのではと思われる。
ところが、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」(20節)と答えられた。
それは、イエスに従うというのは、犠牲が伴うという覚悟が必要であるという意味と思われるが、彼が躊躇した理由とは、彼の高い身分は国民の誰よりも生活の保証等の安泰の約束を手放せなかったのではないだろうか(自己保身)。
さて、もうひとりの弟子も、イエスに従って行きたいと思っていた。
ところが、彼は「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」(21節)と答えた。
この「父を葬る」とは、今父の葬儀を出さなければならないというのではなく、父が生きている間は、父のそばに一緒にいて、父が亡くなって自由になればあなたに従うことができますという意味と思われる(自己都合)。
さて、このふたりは千載一遇のチャンスを逃したのではないだろうか。それは、イエスを信じて従う者は神の救いを受ける(永遠のいのちをいただく)というすばらしいチャンスである。
イエスは私たちの罪からの救いのために十字架の死という尊い犠牲を払って下さった。それは、ひとりでも永遠の滅び(地獄)に至らないためである。
ひとりの魂の救いのためにとりなし、もし神が私を必要とされるなら、素晴らしい救いのみことばを語る者となりたい。
「見よ。今は恵みのとき、今は救いの日です。」 (第二コリント6章1、2節)。
恵みのときはいつまでも続くことはない。必ず終わりの時が来る。そして、その時はイエスは王の王として、また義なるさばき主としてこの地上に再臨されるのである。