「イサクとリベカの祈り」要約 創世記25章1-8、24-34節 2019.12.8 港キリスト教会

   「イサクとリベカの祈り」創世記25章1-8、24-34節

  まず、イサクの祈りです。「イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。」(21節)。イサクが40歳でリベカさんと結婚して20年後の60歳の時に子供が与えられた。

 私たちは祈りにおいて、祈り願っていることが答えられるかどうかが一番気がかりであり、またそのことを一番に重要視する。しかし、よく考えると、祈りに答えてくださるのは神様である。ですから、祈りの結果を神にお委ねして祈ることが大切である。もし、そのような思いで祈るなら神様の答えを忍耐して待つことを容易にする。反対に自分の願い事が叶うことに期待し過ぎるなら、祈り続けることを困難にする。イサクが20年間、あきらめずに祈り続けることを可能にしたのは、リベカさんの閉じられた胎を開くことを、唯一できる神様に信頼し、かつ期待して祈り続けた結果ではないだろうか。

 次にリベカさんの祈りである(22節)。リベカさんは、お腹に宿した二人がこの世に出てくる前から、ぶつかり合うという状況を憂い、そして悪い予感を抱いた。そこでリベカさんは、主のみこころを求めて出て行った。イサクは、リベカさんに子供が与えられるように祈り続けた。リベカさんは、神様のみこころは何かを祈り求めた。つまり、この二人の祈りには違いがある。一つは何かを求める祈りと、もう一つはなぜかを知るための祈りである。ただ求めるだけの祈りに終始するなら、大切にすべき神様のみこころを疎かにし、また大切な神様のみこころを見失うかも知れない。例えば、心配事や不安と言った何か不都合な問題が生じた時に、今すぐにそれらを取り除いて欲しい、一刻も早く解決して欲しいと願う祈りと、そのような厳しい状況の中で、神様は私に何を示そうとされているのか。あるいは何を教えようとされているのかを求める祈りとはワンセットなのである。もし、このことを心に留めて祈るなら信仰者が陥りやすい様々なつまずきや不信仰から守られるはずである。