「偽装を見過(看過)された神』要約 創世記27章1―40節  2020.1.19

「偽装を見過(看過)された神?』創世記27章1―40節 

 

   母リベカと弟ヤコブが兄エサウを騙して長子の権利を手にした。エサウが長子の権利を軽蔑し、ヤコブが作った美味しい一杯の食べ物と長子の権利と交換した。

  エサウにとって、長子の権利の移譲は単なる口約束で、いずれは自分のものになると高を括っていた。ところが、リベカはヤコブエサウに偽装させ、父イサクを騙して長子の権利を奪った。

  もちろん、神は偽りを容認されないが、この親子による偽装工作という出来事からの教訓とは何か。それは、ヤコブたちの神の祝福を求める熱心(貪欲)さにある。

  つまり、神の祝福を求めるなら目に見える祝福を得られるという教訓である。では、神の祝福を得るための大切なこととは。

  それは、日々の神との交わりである。たとえ、わずかな時間でもその時を持つなら、神は喜ばれ、その交わりを通して祝福して下さる。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6章33節)と主イエスが教えられた。

「これらのもの」とは、日常生活に必要なものである。まず神のことを優先するなら、神は私たちの必要を満たして下さる。

  次に、おいしい一杯の食べ物欲しさで神の祝福を失ったエサウからの教訓とは何か。

  それは、やがてエサウの子孫はエドム人となり、ヤコブの子孫を煩わせる民となる。さらに、エドム人の子孫であるユダヤの王ヘロデ大王は、幼子イエスを殺すために、周辺の2歳以下のすべての男の子を殺害した。

  これらの負の遺産は、エサウが美味しい食べ物を食べために神の祝福を失ったのではなく、神の祝福よりも一杯の食物に満足を求めた結末であった。

  私たちの心が神から離れると、この世のものを求め過ぎて神を見失う。偽装という手段で神の祝福を手にした不完全な2人ではあったが、神の祝福を熱心に求めた2人を神は顧みて下さった。

  それは、リベカとヤコブは悪い動機で神の祝福を求めなかったからではないか。もし、2人が悪い動機で神の祝福を求めたなら、神は2人の願いを退けられたはずである。

「求めて得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ書4章3節)

  一方エサウは、たった1つしかない神の祝福を失った時にその大切さに気づいた。私たちも失って初めてその大切さに気づく。毎日飲んでいる水が蛇口から出なくなった時、その大切さと有難さに気付く。

  豊かな生活が当たり前という中で神の恵みが見過ごされる。お腹を空かして美味しい食べ物に目を注いだエサウは神の恵みを見逃し、リベカとヤコブは目に見えない祝福に目を注ぎ、それを得るための偽装工作は見過ごされ神の恵みを享受した。

「なぜなら、わたしを見いだす者はいのちを見出し、主から恵みをいただく」(箴言8章35節)