「幸いな一年(2020)を過ごすために」詩篇1篇1―3節 (新年礼拝)1/5(日)港キリスト教会

「幸いな一年(2020)を過ごすために」詩篇1篇1―3節 (新年礼拝)

 詩篇1篇1―3節は幸いとは何か、その幸いを手にするためにどうすれば良いかを教えている。まず1節の「幸いなことよ」という言葉は「まっすぐ歩む」という意味がある。つまり、神の目から見て間違った生き方からは真の幸いは得られない。なぜなら、私たちの心の源は神につながっているからである。アダムが罪を犯した時に自分が裸であることを恥じらい、アダムは神の目を避けて隠れた。そこで神は「あなたはどこにいるのか」と尋ねられ、アダムは「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」と答えた。人は罪によって神との関係が壊れて真の幸いを失った。

 また、ダビデ王は「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。その人のたましいは、幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ごう。」(詩篇25篇12、13節)と語ったが、彼は王位を利用し、人妻を自分の妻にするという大罪を犯して苦悶し「神よ。わたしにきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください。」詩篇51篇9−11節)と神との回復を懇願した。

 さらに、詩篇1篇2節で人が真の幸せを得るために大切なことを教えている。それは、神のみことばを生き方の指針とすることにある。2節の「主の教え」とは、本来「投げる」という意味があり、投げられた物が落下するまで目で追うラインを意味し、転じて方向、教訓、基準という意味となる。つまり、主の教えとは生き方の方向、教訓、基準であり、その主の教えに目を配って生きる人が真の幸せを神から頂くのである。そのために、主の教えを喜び、昼も夜もその教えを思い廻らすように勧め、そのような人は多くの実を結ぶと約束している(3節)。 

 今年もみことば(主の教え)に聞き、より頼み、従って行きましょう。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべえの良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」

                         (第2テモテ3章15、16節)