「神の遍愛と人の偏愛」要約 創世記25章24―34節 2019.12.15  港キリスト教会

「神の遍愛と人の偏愛」 創世記25章24―34節

  Ⅰ. 父イサクエサウを愛し、母リベカヤコブを愛した。好みのタイプを愛するという両親の偏愛は家庭の中に不和をもたらした。リベカとヤコブは、父を騙して長子の権利を奪い取った。さらに、エサウは異教のへテ人を妻とし、その子孫はエドム人となり、イスラエル人との確執は代々に続いた。また赤子のイエスを殺害しょうと企てたヘロデ王エドム人の子孫であった。信仰の父と言われたアブラハムの子イサクの家庭から偏愛の両親、不信仰な兄、兄を騙す弟が生まれた。しかし、神はこの家庭を偏りなく愛(遍愛)された。「神はえこひいきする方ではなく、どの国の人であっても、神を恐れ、正義を行なう人は、神に受け入れられます。」(使徒の働き10章34、35節)さらに、「あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で、力があり、恐ろしい神。えこひいきせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、寄留者(在留異国人)を愛して、これに食物と衣服を与えられる」(申命記10章17、18節)と書かれている。神は、いかなる者であれ分け隔てなく愛して下さる。

 Ⅱ. エサウは狩りを終えてお腹を空かして帰って来た時、ヤコブが作っていた料理に目が眩んだ。「明日の100よりも、今日の50」ということわざ通りに、エサウは長子の権利よりも、目の前の食物のために長子の権利を放棄した。この世の中には、束の間の快楽のために一生を台無しにする人が後を絶たない。私たちは、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」(第一ペテロ5章8、9節)のみことばに耳を傾けよう。 

 さて、エサウは現世的で世俗的な人物であった。そのエサウについて、「だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者がいないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」(ヘブル書12章16節)と記している。この世のものに執着しすぎると神様を軽んじることになる。 

 Ⅲ. ヤコブエサウよりも狡猾で、ずる賢い人物であったが、長子の権利は神からの祝福であることを熟知していた。エサウが長子の権利を軽んじた機会を捉えて自分のものにした。神はアブラハムによる祝福の権利を軽視したエサウではなく、それを貪欲に求め、重んじたヤコブを後継者として選ばれた(創世記25章23節)。ヤコブの神に対する熱心さに見習いたい。私たちは、神からの祝福を求めることにおいて遠慮は不要、大胆に神の御座に近づいて(ヘブル4章16節)祈ろう。