「バベルの塔(Ⅱ)」―今日的意義― 創世記11章1−9節
人々が高い塔を建てる目的とは、「名をあげる」ためであり、それは人々のおごりであった。「心の高ぶりはすべて主に忌み嫌われる。断じて罰を免れない。」
(箴言16章5節)
おごりは、神を見失い、神を退け、親しい友をも遠ざけ、自らの身をも亡ぼしかねない。
まず5節を見よう。おごる人々によるバベルの塔の建設最中に神が降りて来られた。ある注解者は、「神が降りて来られたという描写は、現在の文明の進歩を嘲笑うかのようで、どれだけ人間が文明や科学が発達しても、神はその全てを手に取るようにご覧になっておられるという、超越した存在者であることを示す表現である。」と解説する。 ここでの教訓は、悪い動機から始めたことは、神の介入によりストップされ、神の御心にかなうなら実現させて下さるということではないか。
次に6節を見よう。人々が自分たちの名をあげようとしたのは、一つの民と一つのことばが要因ではなく、人々の意識的な神への反抗にあった。それは、イエスの奇跡を見た宗教家たちが、それを悪霊の仕業とし、挙句はイエスを十字架の死にまで追いやる恐ろしいものである。このような者に対する神の赦しは最早ない。しかし、弱さゆえにイエスに従いきれなかった弟子たちに対して、主は憐れみ深く対応された。クリスチャンも罪を犯し、また主に喜ばれないことをしてしまうことがある。しかし、弟子たちと同じように、主は私たちにも憐れみ深く対応される。
最後に後半の7−9節を見よう。ここは、神の介入による混乱である。もし、神の介入がなければ、この世界ははるか昔に消え失せたであろう。そして、キリストがこの世界に来られなければ、私たちは今なお罪の中にある。さて、神が介入された目的とは、同じ民、同じ言葉による知恵や能力によって文明を発展させた結果、過信、おごり、そして神を反故(不要)にしたゆえに人々の言葉を混乱させられた。この言葉の混乱は、厳しい裁きではあるが、また人類の将来の祝福のためでもあった。
バベルとは、「神の門」である。人間の知恵や力によって神の頂き(神の門)に届こうと思うこと自体愚かで傲慢である。もし、人間の知恵や知識や力だけにより頼む生き方を続けていくなら、早晩神の介入があり、それは主の再臨の時かもしれない。私たちも心しょう。頑張りすぎていないか。自分の能力に過信していないか、自分の思いや自分の考えに頼り過ぎて生きていないのか。もし、神に委ね、神に寄り頼むなら、私たちは神の素晴らしいみわざを目の当たりに見ることになる(参照:使徒3章12、16節)。