「神の選びとアブラハムの信仰」―長い目で見られる神様― 創世記12章1−20節 2019.7/7 港キリスト教会 礼拝

  「神の選びとアブラハムの信仰」―長い目で見られる神様― 創世記12章1−20節 

 アブラハムは、メソポタミアの地ウルからカランに移り住んだ。ウル、ハランは多神教で偶像に満ちていた環境の中で唯一の神を信じていたアブラハムに、神様はパレスチナに行くようにと命じられた。そこで甥のロトとともにカナンに旅立った(BC2000)。

 さて、アブラハムは新しい地に無事に着き、幸先の良いスタートを切ったが、万悪くカナンの地が大飢饉に見舞われた。アブラハムは、神様に従順に従うもアクシデントに遭遇した。神に従うなら試練はないというのは間違った信仰の捉え方である。アクシデントが起こることを悪いと思うより、そのアクシデントにどう対応することの方が大切である。誰しも、自分の人生が順風満帆であって欲しい。それでも、想定外の事が起こる。しかし、そのような時こそ信仰が成長するチャンスとなる。

 そこで、アブラハムはエジプトに逃れたが、エジプトは未知の土地であったために、アブラハムは自分の妻が美しいということで、エジプト人は美しい妻を奪い、自分が殺されることを恐れ、サラに自分の妹と言って欲しいと頼んだ。アブラハムの保身の結果、サラはエジプトの王に奪われた。大飢饉は自然が招いたアクシデント。しかし、自分の妻がファラオ王に奪われたのは、アブラハム自身が蒔いた種の刈り取りである。アブラハムは先々の心配や不安を神様に託すことが出来ず、姑息な方法で急場を乗り切ろうとした。(箴言29:25)

 窮地に追い込まれた時、己の力で困難を乗り越えようとする時は、たいてい神様のことを忘れている。人間は本来、窮地あるいは危機的な時は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境になる。溺れている時は、それがたとえ藁という頼りない物であれ、人は見える物に頼ろうとする。私たちも、信仰よりも人間的な考えが先行することはないか。そのような時こそ、神のみことばを堅持しょう。

 さて、アブラハムはヘブル書では信仰の父として賞賛されている。しかし、彼はいざという時に信仰が働かなかった。それでも、神様はアブラハムの不完全さをご存知の上で信仰の父として選ばれた。確かに、アブラハムは最初から信仰の父と言われるような信仰者ではなかった。しかし、彼は様々な人生経験の中で信仰が練られていった。しかも、アブラハムの痛恨の失敗も神様がカバーされ、サラはアブラハムのもとに返され、たくさんの品々をも手にした。まさに神様の慈しみと憐れみである。アブラハムの失敗をカバーされた神様は、私たちの弱さ、不完全さをカバーしてくださるお方である。

 それは何よりも主イエス様の私たちの罪の身代わりによる十字架の死という犠牲の愛によって明らかにされている。神様は私たちの信仰の歩みを長いスパンで、また長い目で見てくださるということを、この創世記から学んでいきましょう。