「信仰の試練から学ぶこと」―主の山には備えあり― 創世記22章19節  2019.10/6 港

     「信仰の試練から学ぶこと」―主の山には備えあり―  創世記22章19節

 一般的に試練や苦難にはマイナスイメージがある。ところが、聖書は信仰による試練は決して無駄にはならないと前向きに捉えている。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(第一ペテロ1章7節)

今回は、アブラハムに対する神からの信仰の試練について3つのことを学びます。

第1に、神はその人を駄目にする信仰のテストはされない。神はひとりひとりの状況を踏まえ、最善の方法で私たちに信仰の訓練を与えられるが、その人が駄目になる試練は与えられることはない。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせられることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10章13節)

第2に、主のことばに従順に従うというテストであるアブラハムにとっては、跡取りであるひとり子イサクを神にささげよという厳しい試みであった。しかし、アブラハムは、イサクをささげよという理不尽な命令に従い、翌朝早くイサクと共に出かけた。

第3に、このテストは無理難題ではないアブラハムがイサクを屠ろうとした時に、いけにえは、神が用意されていた子羊であった。このような難易度の高いテストをアブラハムがクリヤーできたのには、彼の裏打ちされた信仰があったからではないだろうか。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」(ヘブル11章19節)

さて、私たちクリスチャンにとって、目には見えない神への絶対的な信頼とは何でしょうか。それは、どのような時であっても、またどのような状況であっても、神のみことばを信頼することにあるのではないか。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(創世記28章18節)