「バベルの塔(Ⅰ)」―今日的意義― 創世記11章1−9節 2019.6.16 港キリスト教会礼拝

バベルの塔(Ⅰ)」―今日的意義―     創世記11章1−9節 

 ノアの時代の人々は良心を大切にして生きる責任を、バベルの時代には、理性を大切にして生きる責任を担っていた。しかし、人々は意図的に神に反逆し、悪い心が結束され高い塔の建築に取り掛かった。

 では、なぜ神はバベルの時代の人々をさばかれたのか。そして、それが現代の私たちにとってどのような意義があるのかを見よう。

 第一に神は、当時の人々が「離散して住む」ことを御心とされた(創世記9章1節「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」)。ところが、人々は神の意に反し、ひと塊りになって住み着いたために、神は当時同じ言語であった人々の言葉を混乱(バベル)させられた。では、今日の時代における神の御心とは何か。それは、福音を信じて救われ、その福音を宣べ伝えることにある。

 第二に神が人々をさばかれた要因に、「名をあげよう」にあった。人々は高い建造物の建築によって名をあげようとした。これこそ、人々がシヌアルの地に住み着いた目的であった。いつの時代も人類は高い建造物に憧れるものであるが、そこには共通心理がある。高層建築を誇る自己顕示欲、名誉欲、名声欲、優越感である。しかし、そのような心に神を受け入れるスペースがあるだろうか。

 主イエスは、名声や名誉を得るためではなく、人類の罪の身代わりによる十字架の死を遂げるためにこの世に来られた。ところが、バベル時代の人々が求めたのは、自分たちの名声と名誉であった。それは、暗に神の存在を否定し排斥するという人間中心主義がある。それは、14世紀末から16世紀の初頭の人間性尊重というヒューマニズムルネッサンス時代)に通じる。しかし、クリスチャンはどのような時代にあっても、私たちを造られた唯一の創造者である主の御名を崇め、誇り、賛美しましょう!

「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」詩篇20篇7節 第3版)