「人を変え、人を生かす信仰」
マタイ17章14—21節
山の麓にいた弟子たちが、てんかんの病の子を癒せなかった。それで、イエスは不信仰な曲がった時代と癒せなかった弟子たちの不信仰を嘆かれた(19、20節)。
ここから、信仰とは何かを学びたい。
❶ 信仰と不信仰とは紙一重(14—16節)
祈りの結果如何で信仰のバロメーター(指標)は測れない。たとえば、重い病の人が祈っても癒されなかったのは、祈りが足りないからと祈りの結果の良し悪しで評価してはいけない。
神様を心から信じて祈ることが大切であり、祈りの結果は神様に委ねたい。祈りの結果の良し悪しにとらわれると不信仰に陥る。まさに信仰と不信仰とは紙一重である。
❷ この世というフイルターによる不信仰(17-18節)
この世のフイルター(偏見)は、聖書にある信仰の世界を歪める。今日、溢れる情報に振り回されて聖書の世界観がますます希薄になる。
しかし、有史以来全能の神の前に人類は無力であることを聖書が証明している。信仰者は、世の価値観であるフイルター(偏見)で霊の目を曇らせないようにしたい。むしろ、みことばのフイルター(濾過)を通して真理の道を歩みましょう。
❸信仰は私たちの人生に計り知れない可能性をもたらす(19-21節)
人生における不安、恐れ、悩み、心配、思い煩いといったネガティブ(否定的)な思いは不信仰の種。しかし、そのような問題の山が小さな信仰によって動かせるとイエスは言われた(20節)。
「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば、移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
からし種は極小である。しかし、からし種が成長するとどの野菜よりも大きくなる。
では、からし種の信仰とは? 「人生の諸問題を何とかしょうと頑張ることを傍に置いて、全面的にイエスにお任せする」ことではないだろうか。