『目には目を、歯には歯を(Ⅱ)』 ―自己の権利と利己心の放棄― 要約 マタイ5章40―42節 港キリスト教会

 

  『目には目を、歯には歯を(Ⅱ)』

 ―自己の権利と利己心の放棄―

    マタイ5章40―42節

   

  報復の正当性を認めていた律法から、イエスによる新しい教えについて40ー42節から見ていきしょう。

40節は、「もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。それは彼のただ一つの覆い、彼の肌をおおう衣だからである。彼は他に何を着て寝ることができるだろうか。」(出エジプト22章26節、27節)という背景があり、下着(普通の服)は質に取ることができたが、上着(外套)は権利として認められ、それを奪うことは誰も出来なかった。ところが、主は「下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」と言われた。40節から導かれる主の新しい教えとは、「わたしの弟子とは、権利を主張する者ではなく、果たすべき義務、そして責任とは何か、そして、神様が喜ばれることは何かを考え、またそれを優先して行動する者。」である。

41節での新しい教えとは。1ミリオン行けと強いられ、さらに1マイルを強要されて憤りをあらわにして、もう2ミリオン行くのではなく、喜んで、気持ちよく、良い事をするつもりでもう2ミリオン行きなさいというものである。

バークレーは「何事をするにも二つのやり方がある。一つは、最小限度のことをしてそれ以上のことは何もしない。傍目にも分かるほど、いやいやながらやる。最低の働きに止めて他は何もしない。もう一つの方法は、やろうという決意をもって、朗らかに、親切に、気持ちよく、しかも上手くやることである。いやいやながら、仕方なくやるのではなく、期待されている以上の事を行なうのである。」と言っている。

42節は、与えることと貸すことについて新しい教えである。主は、「私利私欲のために、他の人の必要に目を閉じてしまう、自己本位なエゴ」について注意するようにと指摘されたのではないだろうか。「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもって愛しましょう。」(第一ヨハネ3章17、18節) ただし、与え、貸すことにおいて困窮の原因を吟味し、本当に助けるべき人(必要としている人)を助けなければならない。では、42節での新しい教えとは、信者だけに限らず、誰かが困っていて、彼を助けられる立場なら、あわれみの心を閉さすことがないように、与えること、貸すことにおいてキリストの愛を実践するようにと勧めている。